勇気を出して

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青年月間礼拝説教
詩編46編2~12節
ヨハネによる福音書16章25~33節

自分を計る物差し

「売れているものがよいもんなら、世界一うまいラーメンはカップラーメンだ」。そう語ったのは、甲本ヒロトさん。ロックミュージシャンにして、シンガーソングライター。「THE BLUE HEARTS」・「ザ・クロマニヨンズ」のボーカルです。その言葉には、「売れることなんてどうでもいい」とたかをくくっているのでもなく、かといって売れていることが絶対だというのでもない、なんとも割り切れない揺れる気持ちが感じられます。

自分を計っている物差しは絶対のものではない、そう気づくことだけで、随分と世界が違って見えるということもあるでしょう。それでも、私たちは常に人から評価されたり、判断されたりする関係性の中で生活をしています。そこから自由になるとか達観することもできない、どこかで自分自身の価値が計られているように感じてしまうこともあると思います。

私は神学生時代の出席教会で伝道師としてスタートしましたが、牧師として働こうとすると、招いてくださるところがなかなかありませんでした。道路をたたいて叫んでいたよ、と後で友人に言われたことがありますが、かなりカッコ悪い青春でした。世の中にはいろいろな大変なことがありますから、今の自分の悩みなんてちっぽけなものだと言ってみればその通りですけれども、しかし、私たち一人一人はそのちっぽけな悩みを抱えながら、懸命に生きているわけです。

あなたがたには悩みがある

そういう時に出会ったのが、ヨハネによる福音書16章33節でした。口語訳で「あなたがたは、この世ではなやみがある」と記されていました。私たちには悩みがある、というのです。若者には若者なりの悩みがあります。壮年には壮年の、熟年には熟年の悩みがあります。子どもには、子どもなりの悩みがあるものです。

どうしてもそこから抜け出すことができない。そこで押しつぶされそうになる。このところで、「苦難、悩み」と訳された言葉は、「圧迫、重圧」というニュアンスのある言葉です。

ヨハネによる福音書16章25~33節は、13章から長く続いたイエス・キリストの別れの説教のしめくくり部分です。「遺言説教」のような、これから十字架への道を進もうとするまさにその時、主イエスは弟子たちに一番伝えたいことを語られたのでした。

その言葉を受け取ったヨハネの教会は、文字通り「この世では苦難がある」という状況にありました。それまでユダヤ教の一派だと思われていたキリストの群れは、「イエスを救い主」と告白することによって、ユダヤ人たちから排斥されました。そのような中で、ヨハネの教会の人々は主イエスこそが神が遣わされた、まことの救い主であり、私たちの兄弟の一人となられた方として告白していました。

キリスト者であることによって迫害を受ける。主イエスはそれを見越して、ここで「この世ではあなたがたには苦難がある」と言われたのでした。この社会でキリスト者として生きていくということには、苦難が伴う。神を受け入れないこの世の中では、神を信じて生きるということは決して容易ではない。今の時代にも当てはまることかもしれません。

勇気を出して

しかし主イエスは、この遺言説教の締めくくりを、「あなたたちには苦難がある」「悩みがある」という共感の言葉で終わられたのではありませんでした。そうではなくて、「しかし勇気を出しなさい」と語りかけられたのです。

この言葉を読んだ時に思い出しましたのは、青年時代に読んだパウル・ティリッヒという人の言葉でした。彼はドイツの神学者でナチス政権の迫害を逃れてアメリカに移住し、そこで神学を教えた人です。「存在への勇気」ということを語られました。「存在への勇気」は、「生きることの勇気」と訳されることもあります。この世では悩みがあり、苦難を負う。それでも自分が生き続けているということは勇気だ、と。信仰というのは何か、いろいろな表現ができると思います。

ティリッヒは、何事も無意味だと感じてしまうこの社会にあって、存在すること、生きることを選び続けるのは偶然ではない。それは勇気であり、そして信仰だと語ったのでした。

主イエスは「勇気を出しなさい」と語られた後、続いて「わたしは既に世に勝っている」と言われました。これはどういうことなのでしょうか。先ほど語りましたように、私たちはこの社会の中で、勝ち負けにとらわれながら生きています。それは自分を計る物差しであり、社会が人に与えている物差しです。聖書が語る、「勝っている」とはどういうことなのでしょうか。

ヨハネの教会の人々にとって、「世に勝っている」という時の「世」とは自分たちを囲んでいる過酷な状況だったと思います。しかしそれはまた、3章16節で語られるように、神が独り子を与えるほどに愛された「世」でもありました。

目の前に光が見えない時、目の前の現実に希望を見出せない時にも、キリストが共にいて、勝利しておられる。それは、私たちが考える、この社会の中での勝ち負けのことではない、とわかるでしょう。

神は、この世がどれほど罪に満ちていようとも、それにもかかわらず、この世を愛し、この世に平和をもたらすために主イエスを遣わされた。そのことを、「世に勝っている」と語られているのです。何か小手先の、物差しを変えれば楽になります、ということではない。何を目指して、どこに向かっているかということを、この言葉ははっきりと示しているのだと思います。

負け戦続きのようでも

阿蘇敏文という牧師がおられました。百人町教会を牧会しながら、河合塾のコスモという、全人格的な教育を施す部門で、コスモ農園を開いて、生徒たちと一緒に農作業をしながら、スリランカから農業従事者を招いて話を聞き、フィリピンへ行って経済状況を学び、クルド難民への支援を行い…というアジアに目を向けた学びを続けておられました。2010年に天に召されました。

阿蘇牧師はある時、「自分はずっと負け戦ばかりしてきた」と話されたことがありました。「イエスだったら、どうされるだろうか」をいつも考えながら生きてこられた。だからこそ苦難を負っている一人一人と共に生きることを大切にするあり方は、この世では「負け戦」のような面をもっていたのかもしれません。

先日、「女子高生サポートセンター/一般社団法人Colabo」代表の仁藤夢乃さんの講演を聞く機会がありました。彼女は孤立・困窮状態にあり、夜の街で徘徊している中高生、若い女性たちを支える活動をしています。「大人はわかってくれない」という子どもたちの声は「向き合ってくれる人がいない」という心の叫びなのだと。そして、自分自身の経験として、コスモで阿蘇牧師と出会い、人と人として向き合ってくれる大人の存在がいかに大切かを語っていました。

その言葉を聞いて、阿蘇牧師は生きている間には、「負け戦」のように感じられることもあったかもしれない。けれど、蒔かれた種は天に召された後も、生きて働いていることを思いました。神が豊かに用いてくださっているのでしょう。

「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。主イエスは天に召される前、遺言として語られました。主イエスの十字架の死は、そこで終わりではなく、多くのいのちの種となりました。神がこの世をシャローム・平和へ導いておられる、その断片として私の生もあるのです。

悩みの中にある時、思うように進んで行かない時、私たちは孤独に、自分の殻に閉じこもってしまいます。しかし主は、そのような私たちの心の扉をたたき続け、「勇気を出しなさい」と励まし語りかけられます。その主に支えられて、ご一緒に歩んで行きましょう。

(この説教は6月28日青年月間礼拝において語られたものです。広報誌『いしずえ』87号に掲載されました。)