2015年12月2日聖書研究

ヨハネの手紙一1章1~10節

 ヨハネによる福音書の冒頭部分を下敷きに書かれたものと考えられます。「初めからあったもの」(1節)はヨハネ1:1の「初めに」の書き出しを言い換えています。「聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」福音書では「初め」は原初を表していましたが、この手紙ではキリスト教の起源を語っています。それはイエス・キリスト自身のことです。「命の言」はここにおいて、イエス自身、そしてイエスが語った言葉、もたらされた救いをあらわしています。「言葉は肉となり、私たちの間に宿った」(ヨハネ1:14)のです。
この手紙は自分が実際に見たことを証言し、伝えることが目的だと言います。証しは「原理」ではなく、実際に見たことです。繰り返し「聞いたこと、見たこと」と重ねられるのは抽象的な概念ではなく、具体的な生活に根ざした言葉だからです。
そしてそれは「交わり」を持つためと語られます。「交わり」はギリシア語でコイノーニアです。「わたしたちの交わり」という言葉は水平方向の関わりです。人と人との間の交流です。しかしそれは単なる友愛ではないのです。それは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」、すなわち垂直方向の交わりのうちに入れられることです。それはこの交わりによって、私たちが「喜びに満ちあふれるようになる」ためです。これは教会における交わりを言っています。礼拝はまさしくこの「神との交わり」を軸に人々が呼び集められるところで起こるのです。
神との交わりがなぜ喜びに満ちあふれるのか、5節以下で語られます。それは交わりによって、呼び起されるものです。私たちは、救いに入れられた者の集まりが、教会の交わりだと考えます。しかし、人はこの交わりに入れられるからこそ、自分の罪を公に言い表すことができるのです。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1:9)。これは、聖餐式式文にあります。聖餐はこの神との交わりなのです。