2015年12月16日聖書研究

ヨハネの手紙一3章1~10節

 聖書は神の愛について書かれている、と考えられています。放蕩息子のたとえ(ルカ15:11~32)、あるいは山上の説教など。しかし、実際に「神の愛」そのものを語っている個所は多くはありません。ヨハネ3:16をはじめとして、ヨハネ文書には「神の愛」が繰り返し語られています。それがヨハネ福音書、そしてヨハネの手紙の特色のひとつでもあります。そして新約聖書の福音のメッセージを要約しているということもできます。その「神の愛」は特に教会へと向けられています。信仰者の共同体は自分たち自身に何かのいさおしがないにも関わらず、神の愛が知らされています。教会は何より神の愛が受け取られ、また受け入れられる真の活動の場なのです。
そこでは信仰者は「イエスのことをありのままに見る」と語られます。福音書に記されているように、イエスの弟子たちはイエスの活動を目の前で見ていたのでした。しかし、ヨハネの福音書の語るところによれば、同じ時に生きていた人たちがまさに「イエスのありのままの姿」を見ていたわけではありませんでした。イエスの死後、その復活の出来事を通して彼らはイエスの真の姿を知ったのです。ここで「私たちは彼に似た者になる」という約束が新たにイエスを生前に「見た」ことがない一人ひとりにとっても大きな約束となります。それは神の愛という賜物の結果として、一人ひとりが神の子であることを受け止めるからです。
しかし、そのような者たちの中にも「罪」の問題が明らかにされます。キリストの救いは罪からの清めであり、本当の自由です。罪は神から私たちを遠ざけ、神の子である自由をうばうものです。シャローム、神から与えられた愛と十全な生の充実を知る私たちは、逆にこの社会がいかに多くの不法に満ちているかを知らされている者でもあります。
悪魔は神の働きを無効であるとする力のことでしょう。いつの時代にも「神の前にある」、自由にされている自らよりも信じることから離れる力が働いているのです。