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2016年2月03日/10日聖書研究

ヨハネの手紙一5章6~21節

人間は「からだとこころ」をもって生きています。聖書では、それを神は人間を「土のちりで造り」、「命の息を吹きいれられた」と記しています。からだをもっていることは、人間の有限性、もろさ、弱さを表しています。同時に「こころ」があることは、人がいつでも自由に、応答して生きる人格をさしています。呼べば応える、そのような語りかけ、応える関係は愛の関係です。「愛の反対の言葉は無関心」と言われる通りです。人は神の愛の内に生きる者として造られました。人は愛を強制されることなく、自由に応答する者とされました。自由の中に責任を担って生きること。

しかし、いつしか人はその自由を神と向き合い、応答することではなく、自分を絶対化し、不当に要求し、神から背を向けるあり方をするようになったのです。聖書ではこれを「罪」と言っています。

「罪」という言葉は、もともと「的はずれ」という言葉でした。イエス時代の律法学者たちが陥っていたのは、「正しい」ということゆえに、隣人を忘れた「的はずれ」なあり方でした。それは、律法(習慣・伝統・常識・世間の目)を守っていても、自由に愛をもって隣人と生きるということからすれば、やはり「罪」なのです。「間違いを犯していない」、しかし愛の内に応答して生きてはいないのです。

永遠のいのち

 「イエスがメシア(救い主)であると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)と記されていました。私たちは、イエス・キリストを通して、神が私たちを愛しておられることを知りました。そして、イエス・キリストの生涯を通して、神の愛に応答して生きるあり方を示されました。死は「罪の結果」だと受け取られてきました。しかし、イエス・キリストを信じて歩むとき、私たちは罪ゆるされ、愛の内に生きる者となります。罪ゆるされて、神と共に永遠に歩むことを「永遠のいのち」と言います。それは、罪の結果の死ではなく、永遠の主のもとにあるあり方なのです。死は希望を断つのではなく、永遠のいのちへとつながるものです。

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