いのち―私を平和の道具として下さい-ティーンズのためのキリスト教入門②

Home / ティーンズのためのキリスト教入門 / いのち―私を平和の道具として下さい-ティーンズのためのキリスト教入門②

久しぶり。この間のメールの返事、ありがとう。(激励かな?)
ところで、今日は「平和」について一緒に考えることができたら、と思っているのです。アメリカやイギリス、各国において、そして日本でも多くの人々が願い、具体的にピースウォークなどによる行動を起こして戦争反対を訴えたにもかかわらず、アメリカ軍によるイラクへの攻撃が始まり、イラクでは多くの民間の人々が犠牲となっています。爆撃により幼児三人が死亡し、同じ一つの棺に納められていたことを報道で知った時は、心が凍りつくようでした。

「聖戦」とは?

経堂緑岡教会2014年12月21日セレクト¥経堂緑岡教会2014年12月21日-0032 アメリカの大統領が「熱心なキリスト者」で、戦争を遂行しているという報道を耳にして、あなたも周りの人たちから、キリスト教は「聖戦」を肯定している宗教、と言われたことがあるかもしれないね。特に旧約聖書は好戦的だ、と言われます。でも、本当にそうなんだろうか。
旧約聖書では「戦争」という言葉が頻出することは事実です(戦争を意味する「ミルハーマー」という言葉は319回使われている!)。でも、だからといって旧約聖書が好戦的、というのは早計だと思うの。確かに旧約聖書は基本的にイスラエルという民族の歴史を基本にしているね。そして、イスラエルの民族が生活していたパレスチナは、チグリス・ユーフラテス川流域で勃興してくる世界帝国とエジプトにはさまれて、交通の要所ともなり、いつでも大国同士の争いに巻き込まれてきた土地でした。現在でもパレスチナで覇権争いが続いていることは知っているよね。イスラエルの歴史は、いわば争いの歴史とならざるを得なかった、といえるかもしれません。
でも、旧約聖書中の戦争に対する態度は決して一様ではないんだよ。エジプトでの奴隷状態からの解放のための戦い。これは領土拡大のためではなく、ヘブライ人が生存権を求めて、主がエジプトのファラオと戦われた、抑圧からの解放。そしてカナンへの侵入、王国時代の侵略といった戦いがありました。
そして、戦争を遂行することを肯定する王たちがいると同時に、国家が戦争を遂行することに反対するイザヤのような預言者、天の審判に期待しつつ非暴力を選ぼうとしたダニエルなど、いろいろな立場があります。旧約聖書はそうした歴史的な事実をありのままに伝えています。そして、その歴史の誤りや罪から目をそらすことなく、悔い改めつつ神の前に出直してきたのが、イスラエルの歴史であり、信仰であると言えるかもしれない。
神の名によって戦われる戦争が「聖戦」で、だからキリスト教やイスラム教のように神は一人という「一神教」は非寛容でだめだ、という言い方がされます。厳密に言えば、聖書には「聖戦」という言葉は出てこないんだよ。「主の戦い」という表現はあるけれど。現在は「聖戦」という言葉が一人歩きして、実際には神の名を語りながら、自分たちの正義を正当化しているんじゃないかと思えるね。

「シャローム」を求めて

旧約聖書で用いられる「シャローム」という言葉は、戦争のない状態というより、もっと広い意味で使われます。「シャローム」はあらゆるものがそれ自身の位置にあり、あらゆる正当な人間の欲求が充たされているような健全な状態を意味しています。人が生きていく権利が保護され、保障されていること、と言えるかもしれないね。それは戦争がないだけでなく、飢餓や難民状態からの救出、奴隷状況からの解放と結びついています。
主イエスが生きた時代も、パレスチナはローマ帝国の支配下にあり、同時にユダヤの宗教的な指導者たちの支配によって、人々は「シャローム」から遠いところで生きざるをえなかったんだよね。その人々とイエスは共に生き、そして神の言葉を語った。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5章9節)。
そして、主イエスが十字架への道を歩みつつ語られた言葉、「剣をさやに収めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」(同26章52節)。平和を実現する方法は、武力、暴力によるのではないことが告げられています。「主の戦い」を闘う者は、歴史のただ中で、「シャローム」から人を引き離そうとする力、抑圧する力と闘う者だ、と。神は今も生きて、共に「いのちを選ぶ」ために闘っておられる、それが、聖書が今も私たちに語りかけているメッセージだよね。

STOP!THE WAR

「沖縄戦の実相にふれるたびに戦争というものは これほど無残で これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです このなまなましい体験の前では いかなる人でも 戦争を肯定し 美化することは できないはずです 戦争をおこすのは確かに人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのもわたしたち人間ではないでしょうか 戦後このかた わたしたちはあらゆる戦争を憎み 平和な島を建設せねばと思いつづけてきました。 これがあまりにも大きすぎた代償を払って得た ゆずることのできない私たちの心情なのです」 「沖縄県立平和記念資料館結びのことば」
イラクへ行って、「人間の盾」となりつつ、戦争反対の意思表示をする牧師がいる、井戸を掘りつつ乳幼児や人々の診療を続ける医師がいる、暴力によらない反対運動を繰り広げる人たちがいる…。キリストに押し出されて、「シャローム」を求める群れは今も広がっているよ。私たちも、勇気を持って一歩踏み出したいね。

*この文章は日本キリスト教団出版局『教師の友』2003年7,8,9月号に掲載されました。
増田 琴