聖研:ヨハネの手紙一4章

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2016年1月20日聖書研究

2016年1月20日聖書研究

ヨハネの手紙一4章13~21節

とどまること
最初に、新たな確信を与える霊の役割が語られます。ヨハネ文書では、「霊」は慰め主、そして代弁者でありました。ここではわたしたちが神の内にとどまることができるのは、霊の実であるといわれます。「とどまる」という言葉は大変重要な言葉です。「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることがわかる」(13節)、そして「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」(14節)と重ねて語られています。神が私たちの内にあって生きて働いておられることは、私たち自身の力で知ることはできません。それは、神から与えられた力によるものなのです。
神は愛です」(16節)という言葉がかぎになります。続いて、「愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と語られます。「とどまる」ことは静的なことなのでしょうか。いつも変わらないことなのでしょうか。とどまることの中身が「神の愛」によって神との関わりから、兄弟姉妹同士への関係へと方向が変えられています。愛にとどまることは、抽象的に同じ状態にあることではありません。逆に、常に変わり続ける人と人との関わりの中で、神の愛を知ろうとすること、神の愛の内にとどまろうとすることなのです。
ヨハネの教会の人々の間にも、不信や疑惑が渦巻いていたかもしれません。しかし、その中で「とどまること」に生きる人々は、愛する者であるがゆえに、愛されていることを知ることができました。そしてそれは、個人として私の内に神がとどまるというのではなく、愛に生きようとする共同体の中に神の愛が示されているのです。
愛の完全は裁きの日における確信を生み出します。それは、「イミタティオ・クリスティ」、キリストに従うということを通して生じるのです。愛の教えはイエスが教えられたことすべての要約であり、縮図です。それは恐れを払い、自ら他者のところへと出向く者となるのです。

2016年1月13日聖書研究

2016年1月13日聖書研究

ヨハネの手紙一4章1~12節

 「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(4:1)。聖書では、「霊」は人間を超えた力のことを指しています。しかし、その霊の中には「神から出た霊」とそうではない霊があります。「確かめなさい」と書かれていますが、どのようにして確かめるのでしょうか。それは「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊」は、神から出た霊だと言われます。手紙が書かれた教会には、イエス・キリストが肉体をもって地上を歩まれたことを認めない人々がいました。その人たちは、神の子は人間のように痛んだり、悲しんだりしないと考えていたのです。
しかし、聖書が語る驚くべきメッセージは、神の子ご自身が私たちと同じこの肉体をとられたということです。それはまた、私たちが肉体をもち、病気になったり、さまざまな試みにあったり、高齢になって弱さを覚える、そのような一人ひとりであって、まぎれもなく神の子であることを示されたのです。
「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」(4:7)。ヨハネ文書には「神の愛」が繰り返し語られています。それがヨハネ福音書、そしてヨハネの手紙の特色のひとつでもあります。ここでは、愛の起源が記されています。愛は神から出たものである、と。愛が神によるものである、それが私たちの信仰の基本的な理解です。もちろん、ここで言われていることは、何か普遍的な真理というようなことではありません。信仰者の共同体は自分たち自身に何かのいさおしがあるというわけではないにも関わらず、神の愛が知らされています。教会は何より神の愛が受け取られ、また受け入れられる真の活動の場なのです。
中村明子 「真珠は貝の生身の傷やクリスマス」
神を見た者はいません。しかしながら、私たちが愛に共に生きようとするとき、そこに神を知る者が生きているのです。