新しく生きる―カラフル-ティーンズのためのキリスト教入門③
このメールが届くのは、秋の訪れを感じる頃かな。受験生にとっては天下分け目の・・・?夏休み、遊びすぎるんじゃなかった!僕の人生、やり直しがきくなら・・・なんて思ったら、このメールを開いてね。
気がついたら
「おめでとうございます。抽選にあたりました!」そう言って目の前に現れたのは、見ず知らずの天使。彼が言うには、どうやら一度死んだはずの「ぼく」は、前世での行いが悪かったために魂の輪廻のサイクルからはずされてしまうところだったのを、この抽選とやらで当たったために、他人の体にホームステイを始めることになると言う。これから下界で他人の体に乗り移り、その人として暮らす。そして一年以内に自らの前世の過ちを思い出すことができたら、晴れて輪廻のサイクルに戻れる、というのが天使(プラプラ)の説明だった・・・。
こんな書き出しで始まるのが、森絵都(もりえと)著『カラフル』という本。1998年に出版されているのだけど、読んだことある?もしなかったら、是非。
「ぼく」のホームステイ先となった体は中学三年生の小林真(まこと)。彼はとある理由で自殺未遂(未遂じゃなく死んだんだけど)していた。病院のベッドで息を吹き返すところから始まる「下界」での生活は・・・?かわいくて、自分を理解し、励ましてくれると思っていた初恋の人が実は全然知らなかった別の顔を持っていた。父は会社の上司の詐欺商法まがいに気がついていたのか?
「ぼく」は周りで生活する人々が垣間見せるたくさんの表情に翻弄されながら、自分のおかした過去の「過ち」に気づこうとする。時間切れ寸前、彼が思い出した最後の風景は、生より死が魅力的に思えたあの瞬間だった。彼はプラプラに答える。「ぼくは殺人を犯したんだね」「ぼくは人を殺した」・・・「ぼくはぼくを殺したんだ」。
出直す
人の数だけ過ちがあり、失敗があり、傷がある。人には消しゴムで消したくなるような過去があり、リセットしたくなる現実があるよね。旧約聖書創世記13章には、アブラム(後にアブラハム)がエジプトから帰ってきて、彼が最初に築いた祭壇の所へ行く場面がある。彼には、消すことのできないエジプトでの失敗が重くのしかかってた。エジプトのファラオから自分の美しい妻サラのことで妬まれ殺されることを恐れた彼は、サラに妻ではなく、妹だと名乗るよう頼んでしまう。
神がファラオを攻撃するという形で窮状から救われたものの、自分の身の安全のために妻すら犠牲にしようとした彼の行為は、過ち、傷となって残っただろうね。同時に、サラとの間に子孫を与え、祝福の基とするという神との契約に対する背信行為でもあった。
アブラムは、そこから出直そうとする。
最初に築いた祭壇へもどるとは、神の前に礼拝をささげ、自分の原点を確認すること。そして自己保身の態度から方向転換して生きることだね。
旧約聖書に残されているのは、ただ失敗の中にうずくまっているのではなく、主の前に「悔いくずおれる者」、そして主の前に立ち帰りながら出直す者の姿なんだね。
新しく生きるーカラフル
出直す。でも、自分で「これでよい」と思ってひた走っている時、その向きが誤りだ、と気づくことは難しい。使徒言行録9章に記されるサウロ(後にパウロ)は、生粋のユダヤ人で、「イエスは主だ」と告白する人々を捕らえ、走り続けていた。そんな道の途上、彼は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞く。それは、人々を傷つける道を走る彼を探し求め、その姿に気づかせ、新しく出直させようとする、復活された主イエスの声。
サウルは、アナニアというキリスト者に導かれて洗礼を受けた。彼にとって洗礼を受けることは、まさしく方向転換し、出直すことだった。後に彼はトルコ・ヨーロッパへ福音を伝える者とされる。でも、彼によって逮捕されたり、仲間を失ったりした人たちはすぐに彼を信用したわけではなかった。パウロは、その過去の過ちや罪をも正直に語りながら、そんな自分を確かに、新しく生かしてくださる方がおられる、と告白したんだね。
カラフルの主人公「ぼく」=小林真は「出直す」チャンスを与えられた。そして気づく。本当はあの瞬間が終わりじゃなかった。とりかえしのつかない自分、とりかえしのつかないたくさんのもの・・・。自分が「終わり」と思ってしまったんだって。
人の間で生きていくことは、無色透明ではいられない。いろんな人のいろんな側面や思い、傷、そんな極彩色の現実を受け入れながら歩いていく他はない。でも、その中を、ただ周りの色に染められながら生きるのではなくて、自分を確かめながら歩いていきたいね。そのためには、その現実の中に確かに通っている「基軸」に出会う時が必要なのだと思う。それが礼拝の時。
「とりかえしがつかない」過去の現実に押しつぶされて死んでしまうのではなくて、「古い自分に死ぬ」時。「古い自分」とは、自分一人で生きて、自分の力だけで全てが解決できて、自分一人が充足すればよいという生き方のこと。サウロは自分では身動きできなくなった時、自分が「終わり」と思った所で初めて「生かされている自分」、そして導いてくれる友と出会い、生き方の向きを変えられた。自分を人の間で豊かに生かして下さる方、主と出会う時、私たちは神が創られた世界、人々と「共に生きる」新しい生き方へ導かれるのではないかな。
新しく、カラフルに生きていきたいね。
*この文章は日本キリスト教団出版局『教師の友』2003年10、11、12月号に掲載されました。
増田 琴