新しい歌をうたおう
2015年4月説教
詩編33編3節
コリントの信徒への手紙二 5章14~21節
歌う動物
人はなぜ歌うのでしょうか? 思想家丸山圭三郎氏は著書『人はなぜ歌うのか』の中で「唯一の”歌う動物”である人間の特性は、古今東西、さまざまに形を変えながら継承されているのである」と記しておられます。人とは、歌う動物。私たちはいろいろな時に歌を歌います。歌を歌うことで楽しさが増したり、歌うことで癒されたり、歌うことで悲しさから救われたり、歌うことで勇気が湧いたりします。歌うことで人とつながるということもあるかもしれません。
私たちが新しい年度を迎えるにあたって与えられている聖書の言葉は今年度の年間標語でもある、「新しい歌をうたおう」。礼拝の中で歌われる賛美歌は、信仰生活において様々な時に歌われてきました。喜びの時も悲しみの日にも私たちを励まし、慰めを与えてくれます。
それが他の歌と異なるのは、「主をほめたたえる歌」であるということです。「ほめたたえる」とは、「大きくする」ことです。私たちの普段の生活は、いつも「私」が中心です。私の思い、私の判断、私のやっていること……というように。「主をほめたたえる」ことは、いつもの私語りを、私を中心とした話を脇に置いて、主が歴史の中で働いておられること、人々を救いと解放へ導き、絶望から希望へ、憎しみから和解へ導いておられることを歌います。そして、その主のわざに対する私たちの応答と参与を歌っています。
賛美歌は祈りの歌
賛美歌は信仰の歌であり、祈りの言葉です。祈りの言葉が音楽を伴って人々の心へと届けられているのです。その祈りの言葉によって、一人一人の心に主を賛美することの喜びと生きる希望が届けられていきます。
賛美歌の原型ともいえるのが、詩編です。詩編はイスラエルの人々の信仰の生活の中で生み出されてきました。イスラエルは紀元前6世紀、当時のバビロニア帝国に滅ぼされ、信仰の中心であった神殿を失い、故郷を奪われ、人々は遠くバビロンの地へ捕囚となっていきました。
神殿に集まることができなくなった信仰の民は、それぞれの居住地に小さな会堂を造り、安息日ごとに集まって礼拝をささげました。私たちキリスト教会の礼拝の原型は、この会堂(シナゴーグ)でささげられてきた礼拝にあります。150編の詩編は、長い時間をかけて生み出されてきた祈りの書です。神を信じていたのに、そして神に選ばれた民だと信じてきたにも関わらず、破れの中を歩かなければならない。失意の中にあって、祈られてきた言葉です。
ですから、「ほめ歌をうたう人」は、いかにも呑気で世の苦しみなどと無縁に歩いてきた人が鼻歌でも歌うように歌っているというのではありません。詩編の最初の祈りの言葉は「ああ」という呻き声です。人は喜び、楽しみ、笑いと共に、だれにも打ち明けられない悩みや苦しみ、呻きを内に秘めています。それは「深い淵」、「暗闇」とあらわされます。
しかし、詩編の詩人はそのような中に自分で沈み込んで、他の人も誘い込むようなことをしているのではありません。そうではなくて、限りなく深い闇を抱えながら、「ああ主よ」と呼びかける。その自分の世界を突き破って、主に呼びかける。そこに新しい世界が拓かれていくことに賭けているのです。
詩編の詩人は歌います。「新しい歌をうたおう」。自分ではどうすることもできない破れの中にあったのに、失意の内にあったのに、もう立ち直れないと思っていたのに、私の中には呻きと不安とつぶやきと妬みと愚痴しかないと思っていたのに、主が私に近づいてくださった、私に手を伸べてくださる。絶望し、膝を折り、不安とつぶやきの言葉しか出てこなかった者が、賛美する者へと変えられる、詩編が伝えている「新しい歌」はそのような歌です。
「新しい歌」は礼拝に集う群れによって歌われます。祈りの言葉は私の祈りであると同時に、私たちの祈りでもあります。祈れない時にも、心からの感謝を歌えない朝も、ここに集う礼拝の友と声を合わせることができるのです。
キリストに結ばれて
新約聖書コリントの信徒への手紙二5章17節には、「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」と記されています。私たちが新しいものに関心があるとか、興味をもつということではなくて、キリストに結ばれている人はだれでも、神によって新しくされているのです。
「いつくしみ深い」という賛美歌があります。
いつくしみ深い 友なるイエスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる。
悩み苦しみを かくさず述べて
重荷のすべてを み手にゆだねよ。
この賛美歌の作詞者ジョゼフ・スクラヴィンは一度ならず二度までも婚約者に先立たれるという痛ましい出来事に出遭った人です。大学卒業後、結婚式の前日に婚約者が溺死してしまい、彼は大きな心の傷を受けました。その後、独立伝道を志して貧しい人々に奉仕する生活の中で将来の希望が見え始めたと思われた時、二人目の婚約者が結核にかかり、帰らぬ人となりました。彼は魂の暗闇の中をさまよいました。しかし彼の心の中にあったのは、同じように愛する者を喪った母のことでした。スクラヴィンは母を慰めるためにこの賛美歌を書いて送りました。
神を呪うような試練の中で、彼の近くには、友なるイエスがおられました。2節には嘆き、悲しみを委ねて祈ることができる。主イエスは私たちの弱さを受け止めてくださるとあります。それは、主イエスが私たちの近くにいまして、私たちの兄弟となってくださったからです。神は遠くにいます方ではありません。私たちの隣りを歩かれる。ある時には人々から大きな賞賛を受け、しかし人々からあざけられ、裏切られる辛さを経験された。そのような私たちの兄弟である主イエスが、私たちのどのような悲しみの中にも共にいてくださる、と。
スクラヴィンは「キリストに結ばれている者」として、この詞を書きました。キリストに結ばれている人は、神を賛美する人です。
新しい歌をうたおう
私たちの時代は、課題と向き合う中で新しい賛美歌を生み出してきました。3・11東日本大震災以降、キリストの十字架は個人の罪のゆるしということにとどまらず、不条理の中で苦しみを負ってきた人への連帯のしるしと受け止められています。キリストが十字架を担われたのは、「ああ、なぜ」とつぶやかざるを得ないような状況にご自身が立たれた。そして、その苦しみを担ってくださっている、だからこそ、そのただ中にある人も賛美歌を歌う者とされるのだと思います。
「新しい歌をうたおう」
私たちの社会、時代にあって、ご一緒に主をほめたたえる歌を歌っていきましょう。子どもを育てていく時、介護を担う時、人のいのちを育んでいく人には、その働きを支える言葉が必要です。社会のただ中で忙しく働いている一人一人には、生きる基軸となる言葉が求められるでしょう。今朝も、ネパールでは地震のために亡くなった方々がおられると報道されています。紛争地で生きている人たちが生きるための手立てを与えられるように、子どもたちが希望をもって生きられるように、連帯の祈りをささげたいと思います。
賛美は自分の世界を豊かにするだけではなく、新しい世界を一緒に築いていこう、主のシャローム、平和のために共に働こうと私たちを促します。
「新しい歌をうたおう」
この地から、神の国の福音の言葉を発信していきましょう。主をほめたたえる群れがあることが、私たちの時代、社会にとっても希望の基なのです。
(この説教は4月26日主日礼拝において語られたものです。広報誌『いしずえ』86号に掲載されました。)
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