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2015年12月20日(日)主日礼拝<クリスマス礼拝>説教

説教 『喜びのおとずれ』 増田 琴 牧師
聖書 ルカによる福音書2章1~21節


暗闇の中の灯火
 クリスマスおめでとうございます。
 クリスマスは一年で一番夜が長い時期に迎えます。クリスマスはイエス・キリストの降誕を祝う日ですが、イエス・キリストがこの日に生まれたかどうかはわかりません。ではなぜ、12月25日がクリスマスに定められているかと言うと、この時期が一年でもっとも夜が長い季節だったからです。
 人は誰でも、暗闇の中で何も見えず、行く道を見出すことのできない時を迎えます。暗さの中にいても、かすかな明かりがあれば、その方向へ歩いて行くことができます。イエス・キリストは暗さの中で不安にさいなまれ、道を失っている時の灯火として私たちの間に来てくださいました。
 聖書のクリスマスの物語は、天と地をつなぐ物語です。
 羊の番をしていて野宿をしていた羊飼いたちに、天使が現れて告げました。
 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。
 私たちは一人一人、かけがえのないいのちをいただいて、歩いています。それは本来、喜びに満ちていた道です。しかし人間はその神の祝福から離れてしまいました。人間が世界の支配者となって世界をむさぼります。地は人の罪によって暴力と不正義があふれました。そして、私たち一人一人も神から与えられていたいのちの輝きを見失ってしまうことがあります。
 でも、クリスマスに、神さまはもう一度私たちの方へ道を開いてくださいました。「あなた方の救い主」イエス・キリストを通して、私たちが神さまの方へ生きていくことができるようにしてくださいました。暗闇の中で「あなたは一人ではない」と伝えてくださいました。自分が一番弱い時に、自分が出かけられない時に、御自分の方から私たちのところへ来てくださいました。
それは「喜びのおとずれ」です。

一人一人を探し求めて
 教会ではクリスマスの時期になると、病院や高齢者のホームにいらっしゃる方々のところを訪問します。今年も教会員の方々とご一緒に訪問しました。クリスマスの祝福を届けるためです。東京でしばしば経験するのは、初めての病院などに出向く時の心細さです。小さな町ですと、大体入院する時に行く病院は決まっていて、普段からよく知っています。でも東京はいろいろなところに病院があり、よく知らない町の初めていく病院。土地勘がないので、地図を頼りにしながら病院をさがして、病室がわかっていればそこをみつけて、そして知らなければ受付やナースステーションで訪ねて探し当てます。
 東京の大きな町の中で、病院のそのベッドが今その方がおられるところです。ちょうど空から航空写真をとっているように遠くから眺めていたような感じから、だんだんと地上に近くなるにつれて大きくなっていくように目的の場所が近づいてきます。そして、目の前のベッドにいる方と出会います。不安やいろいろな思いを抱えて寝ておられます。
 そこで会った時に、どれほど人が多くいようとも、私は今この方を訪ねて、この方に主イエスが共にいてくださることを伝えたくて、祝福を祈りたくてきたのだ、と思います。たくさんいる人々の一人ではないのです。その人、なのです。天から賛美を歌った天使たちが喜びを伝えたのは、羊飼い一人一人でした。
 クリスマスは、私たちが神を探し求めるのではなくて、神さまが私たちを探し出してくださる日です。毎日毎日、特に変わり映えしないような日を送っている、気落ちして辛い思いをしている、あるいは、充実して忙しいので、ゆっくり人生のことなど考えている暇がない。そういう私たち一人一人を探し出して、さまざまな形で愛の言葉が届けられる。
 ここにいらっしゃる皆様も、チラシを手にしたり、カードが届いたり、友達の誘いがあったという方もいらっしゃるでしょう。
 あの羊飼いに表れた天使は教会に行こうと誘ってくれた人たちかもしれません。そして、イエス・キリストの居場所へ導いてくれた星はイエス・キリストに出会い、心から賛美をするようにといつでも導いてくれた家族や周りの人々かもしれません。
 私が親しくさせていただいている牧師でチェリストの女性がいらっしゃいます。彼女は音楽大学で学んでいた中から、神学校へ進まれたのですが、きっかけは、祖父の病床洗礼でした。死を間際にして悲嘆に暮れていた祖父が、受洗の喜びのあまり、ベッドの上に身を起こして賛美歌を歌いだされたのだそうです。
 その曲は「もろびとこぞりて」。真夏の病院です。季節外れと思える。しかし、「主は来ませり。主は来ませり」と歌うその歌は、その場に一番ふさわしかった。他の誰のところにでもない、この、病の床にある私のところに来てくださった、と。彼女は、主をお迎えするということは、死を待つばかりの祖父にさえ真の喜びと生きる力を与えるということに気づいたのだそうです。

飼い葉おけの中に
 探し当てられた羊飼いたちは、今度は自分たちが訪ねていきます。羊飼いたちは布にくるまって飼い葉おけに寝ている乳飲み子を見つけました。羊飼いたちは自分たちの人生にそんな大きな出来事が起こるとは考えてもいなかったかもしれません。毎日毎日羊の世話にあけくれて、同じ場所で眠ることさえできない生活です。きらびやかなこととは程遠い。貧しく、夜通し働かなければならない日々です。
 でも、何も発見することなどできないだろう、と思われたところに大きな祝福がありました。価値がないと思われるところ、望みが感じられないようなところで、最も大切なものをみつけた。クリスマスはそのような時です。
 なぜ神の子が飼い葉おけに寝かされているのでしょうか?飼い葉おけは、私たち自身の姿を映し出しているのかも知れません。昼間動き回っている時には、どうにか、忙しく過ごしています。しかし、一人になって自分のことを考えてみると、決してきれいなところばかりではないことに気づきます。不安もあります。傷もあります。暗さもあります。
そしてまた、飼い葉おけは、私たちの社会の縮図と言えるかもしれません。
 イエス・キリストが誕生したのは、ローマ皇帝アウグストゥスが治めていた時代。「ローマの平和」が武力によってもたらされていました。一部のローマ市民のための平和、豊かさのために、ユダヤのような属国の民は大きな犠牲を強いられていました。格差が広がり、実際に寝床を失った人たちが、明日の生活のことを考えながら途方に暮れています。
イエス・キリストの誕生は、ローマから見れば、まるで取るに足らない、片隅で起こった出来事でした。
 「もし、今この社会にイエス・キリストが来られるとしたら、どこに来られるだろうか」という問いにそれぞれの人が答えている文章があります。その中で、ある方が、イエスが今この社会に来られるとしたら、それはダンボールの中で寒さと飢えをしのぎながら、身を寄せ合っている中に来られるのではないか、と記しておられました。
 そのような私たち自身の飼い葉おけ、私たちには見えづらい所に、主イエスは来てくださいます。だれでもいい、大勢の中の一人である私ではなく、他のだれでもない、私自身の隣りに。
そして、飼い葉おけに来てくださったからこそ、私たちは自分が立派になることを目指さなくてよいのです。愛を受け容れた者として生きるように召されているのです。

喜びの日々の始まり
 羊飼いにあらわれた天使たちは歌いました。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ」。
 羊飼いたちは、夜の間歩いて、その飼い葉おけに寝かせたある幼子イエスと出会いました。自分たちの仲間のように、決して人から羨まれるような場所ではなく、家畜小屋で生まれた救い主でした。その方を探し出したとき、羊飼いたちは大きな喜びに包まれました。そして、神を賛美しながら帰っていきました。
 飼い葉おけに寝かされた幼子はろうそくのように、自分の体を燃やしながら周りの人に温かさと熱を、神からの愛を伝える生涯を送りました。それは地に平和を願う、神のみ心を映し出した歩みでした。
 「神が共にいてくださる」喜びの日々が、この時からはじまったのです。羊飼いたちの日常は、この時から特に変わったわけではありませんでした。決して気楽で快適な生涯とはならなかったことでしょう。それでも、憎しみの中で和解を望み、対立の中で話し合うことを求め、絶望の中にあってなお、希望をもっていこうとする生き方には、他の人に伺い知ることができない喜びがあります。
 喜びなどない、骨折りの仕事だけ、と思われていたところが祝福の場所となります。神さまの眼差しが注がれる場所になります。

「にもかかわらず」
 2015年。イエス・キリストが生まれたパレスチナの地方は、今も大きな紛争の中にあります。紛争やテロ、そしてそれを生み出していく格差や貧困という現実の中で、多くの人々が家を失い、家族を奪われ、子どもたちは親と離れ、移動をよぎなくされています。
 あり余るものに囲まれて生活している子どももいれば、食べるものがなくて、生きられない子どももいます。小さな頃から、大人がやってもきついレンガ運びをさせられたり、紛争が起こっている地では、子ども兵士として銃をもたされている子どもたちもいます。
 「紀元」を表す「AD」はアンノドミニ (Anno Domini) 」の略です。主イエスの年を歩み始めて2015年。たくさんの人が神さまの愛に気づいて、イエスが私たちに伝えられたことを大事にして生きようとしてきました。でも、神さまが伝えられたことがすべての人に伝わっていくには、私たちの想像を超えた時が必要なのかもしれません。
私たちは「どうせ」と思ってしまうのです。「どうせ、人間は憎しみに憎しみでしか報いられない」。「どうせ、他の民族や宗教、文化をもつ人々と理解しあったり、共存することは難しい」。「どうせ、平和を祈っても…」と。
 クリスマスは、「どうせ」ではなくて、「にもかかわらず」という時です。世界は争いに満ち溢れている、にもかかわらず、平和のために祈り、神の平和を表す器となるように願う。私たちはクリスマスにイエス・キリストを迎えたのだから、平和ではないところに、神が平和を望んでおられることを知らされている。
 「メリー・クリスマス」の「メリー」という言葉は古いアングロサクソン語からきたもので、「強力な」とか「勇敢な」という意味をもっていたそうです。「メリー」とは、単に楽しくするということではなくて、困難な状況にあっても主イエスが共にいてくださるがゆえに、勇気をもって生きていくことができる。希望が見出せないような時にも、主イエスがともにいてくださるがゆえに、一歩を踏み出していける。
だから、クリスマスは「メリー・クリスマス」なのです。

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