2016年2月17日聖書研究
ヨハネの手紙二
この手紙には差出人と受取人が記されています。「手紙」というと個人的な私信のようですが、ここでは教会で読まれるための書簡です。ヨハネの教会に宛てた手紙です。「長老」と呼んでいる人がだれなのか、はっきりとはわかりませんが、この教会の責任ある立場の人ということだと思います。また「選ばれた婦人」とは教会の女性たちのこと、あるいは教会そのものをさしているとも考えられます。
「真理」という言葉が多く出てきます。ヨハネによる福音書では、「真理はあなたたちを自由にする」(8:32)と記されていました。この時の真理とは、学問的なあるいは人間の積み重ねによって得られるものではなく、「イエスを救い主と告白する」ということです。ですから「真理に歩む」(4節)とは、イエスを信頼する信仰から離れずに歩むということです。また、「掟」(5節)は「互いに愛し合いなさい」ということです。これもヨハネによる福音書、またヨハネの手紙一4章など繰り返し語られています。新しいことを知ることが真理なのではなく、知らされた福音にとどまっていることが大切なのです。
教会の中には、イエスが肉体をもって歩まれたことを否定する人たちがいました。その人たちは、神の子は人間のように痛んだり、悲しんだりしない、と考えていたのです。それは具体的な愛を見失わせることになってしまう。ただ観念的に、「神の子」について考えるように、愛について考えるばかりとなってしまう。教会の交わりの中に、「互いに愛し合う」ことが失われてしまうのです。
神の愛は具体的な形をもって、生をもって、あり方をもって私たちに示されました。それがイエス・キリストです。イエス・キリストは、十字架の極みまで私たちを愛することを示してくださいました。私達が自分の姿にきづくためです。神からの愛を忘れて、闇の中に生きる私たちが、イエスの愛のゆえに、その姿から方向転換をして、真の愛に立ち返るためです。イエス・キリストの愛は痛みを通して、私たちに示されているのです。