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2016年1月10日(日)主日礼拝説教

説教 『燃えても燃え尽きない』 増田 琴 牧師
聖書 出エジプト記3章1~10節
   ルカによる福音書9章1~6節


 
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 新年を迎え、主の年をご一緒に歩み始めました。ルカによる福音書から聞いていますが、今朝は特に、弟子たちが主イエスによって派遣されている箇所を共に聞きました。主イエスは弟子たちを「神の国を宣べ伝え、病人をいやすため」に各地に遣わされたのでした。それは弟子たち一人一人が命へ召されていった出来事でした。
 「召命」という言葉は、神から与えられた使命を全うするように招かれることを意味しています。自分の仕事を神から委託された業として行なう、そのことに時間や生活もささげるという意味合いです。この「召命」という言葉が「命に召される」、あるいは「命へ召される」ということだと気づいたのは、牧師となって随分経ってからでした。
 「命」は「いのち」と表記されるように生物としての命のみならず、社会的な人と人の関わりや神との関係など、人の営みすべてに関わる事柄を指しています。ですから、私たちが携わっている仕事が何であれ、だれもが「いのち」に関わるわざへ召されているということができると思います。
 家庭での育児、介護であれ、人の「いのち」に関わる働きは思い通りにならないことも多く、知らず知らずのうちに内側に辛さをため込んでしまうこともあります。人と接する仕事は相手のいのちと直接触れ合う働きであり、やりがいも大きい。同時に、「感情労働」として自分自身の感情はコントロールしなければならないので、自分の感情が磨滅したり、鈍化していくことに気づかないことも多いと言われます。
 サービス業、営業、教師、医療、介護など、感情を使って人に接する仕事につく人は、ストレスをためやすいものです。休んでいても感情がすぐに解消するわけではないので、苦情を言われた時の自分の思いや怒りが湧きあがって、なかなか回復できない。その結果、「燃え尽き」が起きたり、自身の心や体に不調をきたすこともある、と。充実した思いを抱くと共に、問題が起こった時や人間関係の中で知らず知らずのうちにストレスを溜めている場合もあると思います。
 私たちの教会、私たち自身も「いのち」を支える働きに召されています。その働きの中で、「燃えても燃え尽きない」柴の表象は、私たちに様々なイメージを与えます。

叫びが届くとき
 「出エジプト」はイスラエルの人々にとって信仰共同体としていつでも帰るべきルーツの物語でした。神の導きと救いの歴史を彼らの信仰告白として、家庭においても、また民族の危機の時にはいつでも振り返る土台の経験として思い起こされました。その歴史に照らして民族の現状が反省され、新しい救いのわざを待ち望む指標でありました。同時にイスラエルの人々のみならず、歴史を通して様々な抑圧や束縛に苦しむ人々の「解放の物語」としても読まれてきました。
 モーセの出生は、出エジプト記1、2章に記されています。エジプトのファラオによるヘブライ人の男児殺害命令により、殺されるはずだったレビ人の赤ん坊は、エジプトの王女、そしてモーセの姉ミリアムたちによって助けられます。
 出エジプト記はユダヤ教の聖書では「名前」という言葉で表されます。モーセと言う名前も二重の意味がありました。エジプトの言葉でそれは「息子」を意味しています。そしてヘブライ語では「引き上げる・引き出す」という意味です。
 モーセはヘブライ人でありながら、支配者側のエジプト人の王子として育てられました。エジプト人がヘブライ人を酷使していることに耐えられなくなり、相手のエジプト人を殺してしまうという出来事が起こります(2章11~14節)。そして、ヘブライ人同士が争っているところで仲裁に入ろうとして、そのことを暴露され、ミディアンの山に逃げてきたのです。
 モーセは祭司でも預言者でもありません。逃げてきて、今は異民族の中で預けられた羊の世話をしているにすぎません。モーセはミディアンの祭司の娘ツィポラと結婚し、生まれた男の子の名前をゲルショムと名づけます。ヘブライ語の「ゲール」は寄留者。それは、「私は異国にいるよそ者だから」という意味でした。モーセは故郷を失った者、自分を隠して生きる者となりました。
 しかし、モーセの不遇とも思える生涯は、それで終わることはありませんでした。「時」がやってきました。それはモーセにとってはすでに老境に入った時でした。神が叫びを聞かれる時でした。
 「彼らの叫び声は神に届いた」(2章23節)、「イスラエルの人々の叫び声が、今わたしのもとに届いた」(3章9節)この「聞く」という言葉はイスラエルのシェマー「聞け」(申命記6章4節)と同じ「シャーマー」という動詞ですが、この語は「聞いて応答する」という意味です。ただ聞いたというのではなく、注意や関心を向けて行動しようとする姿勢を表しています。
神は「民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(7節)方として、モーセを必要とされました。「痛みを知る」という時の「知る」という言葉はヘブライ語では「ヤーダー」という語ですが、これは単なる情報や知識を得ることをさす言葉ではありません。他者の経験を自らの経験と呼べるほどに、他者と分かち合おうとする姿です。
 ホレブの山は聖地でもなければ、聖なる「しるし」などどこにも見受けられないありふれた地に過ぎません。モーセの職業は全く世俗的なものです。しかし、そこで神はモーセの名を呼ばれました。老境に入り、役割は終わったと思っているモーセに神は呼びかけます。ヘブライ人をエジプトから脱出させるようにと呼びかけたのです。彼は常に違和感や孤独を抱えた少数者の側に立った生活を送ってきました。そのようなモーセが自分自身から避けていた、自分は何者かということに向き合うように神から声をかけられました。そして、「わたしはあってある者」という声によって、モーセ自身が立ち上がりました。

燃えても燃え尽きない
 ここで神は燃える柴というシンボルを用いられました。柴が燃えているのではなく、柴の間から燃え上がる炎、その柴が燃え尽きないでいたのです。モーセはその光景に好奇心を抱いて、近づきました(3章2、3節)。もちろん、そこが聖なる場所であるなど考えるわけがありません。そこには神殿もなく、神がいますしるしなど、何もないからです。
 以前、この「燃える柴」について、前任地の巣鴨ときわ教会から献身されて、現在、台湾基督長老教会国際日語教会の牧師であるうすきみどり牧師からお聞きしたことがあります。台湾基督長老教会のシンボルマークは、モーセが初めて神に出会ったときの「燃える柴」をデザインしたものです。炎に包まれた柴の下には漢字4字で「焚而不燬」と記されています。「燃えているのに燃え尽きない」(2節)という意味です。
この「燃える柴」には、「それ自体には価値のないものに、神が臨在して救いのしるしとなる」、「神は人々の苦しみを見て救いを告げる」、「神のみわざのために使命を与えられる」という意味が込められています。
 台湾基督長老教会は、台湾が日本の植民地となった時代、そして戦後は国民党政府のもとで厳しい支配を受けてきました。「原住民」(イエンツーミン)と、大陸系の台湾人の間の差別や対立、また外来の支配者によって抑圧されるという複雑な社会の中にあって、「台湾人」、「原住民」の立場に立つ教会は厳しい弾圧や差別を経験してきました。しかし、まさに焼き滅ぼされるような経験の中にあっても、「燃え尽きない」教会だったのです。

「わたしはあってあるもの」-神がともにいます
 モーセには神との出会いに対する備えもありませんでしたし、それを求めたわけでもありませんでした。モーセは狼狽し、問いかけ、逃げようと試みます。
しかし、神は人間に有無をいわせぬ絶対服従を強いるというより、人間の問いかけ、応答によって、彼自身を偽りのない会話に導いています。むしろ、問いかける人間との間の相互作用によって、神はより深く、より鮮明にご自分を表わしておられるように受け取れます。
 神に呼びかけられ、務めへと召されたモーセは「わたしは何者でしょう」(11節)と応答します。モーセが誰であるか、何者であるのか、それはそれをご存じである神によって支えられています。ここで用いられる動詞(エヒエー)は14~15節で再び、今度は神ご自身が自らを表される時に用いられています。自分がその務めにふさわしいのかとの問いは、神の臨在の確かさだけがその答えとなっています。彼は一人で自分の資質に頼って行動する必要はないのです。モーセがやがて全イスラエルと共に立ち、そこで神に仕える時に初めて彼は自分が「何者であるのか」を知ることになります。
 モーセは問いかけることで対話を続けます。「わたしは何者でしょう」という問いかけは、「あなたは誰ですか」という問いとなります。それは将来に対する問いです。固く自らを閉じていたモーセが、神を問う者となる。それは神ご自身が開かれた者として御自分を表されるからです。神の啓示は人の問いかけによって呼び起されています。
 神はモーセにその名を問われて、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)と答えられます。これは訳するのに非常に難しい箇所です。多くは「わたしは有るところの者である」と訳されます。たとえば70人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書の一つ)は「わたしは存在する者」と訳していますが、これは神を不変、不動の永遠的、全体的存在者である姿として表します。しかし、この出エジプトの神は悩みを見、叫びを聞き、苦しみを知る(7節)神であり、さらに「下って」「救い出し」「導き上る」(8節)神です。苦しみを知って身を低くかがめる神であり、苦しむ者を探し求める神です。そこには、新約聖書のイエス・キリストにおいてあらわされた神のあり方が示されています。
 「わたしはあるという者だ」。それは、現にここにいる者である、という意味であると共に、「わたしは必ずあなたと共にいる者である」という意味でしょう。神は務めへの適格を尋ね、その正当性を問うモーセに、わたしが必ずあなたと共にいて、共に働くことを約束しておられるのです。これは新約聖書の「インマヌエル」(マタイによる福音書1章23節)とも結びついて、私たちの存在の基となる言葉です。
その前に立つ時、私たちは初めて自分の姿を知ります。枯れ枝のようにうつむき歩いていた私に、主は語りかけて下さる。「わたしがそうなのだ」と。生きていくことの重さをその肩に負ってきた、痛みに触れられ、ありのままの姿で自らを受け止められた時、私たちの内にある水脈にいのちの水が流れ始めます。神のまなざしの中で生きていく者となります。あなたを見出し、共に歩く者なのだと。自分がふさわしいのか、ではない。私たちも神が召し、共に歩いてくださる道を共に切り拓いていく生き方へ召されています。
 私たちの燃えても燃え尽きないあり方はどこからくるのでしょうか。神は燃える柴となって、「あなたを見出すために火のような熱情をもっている」と表してくださいます。そして、私たちを主が燃える柴となっておられるところへと導いておられます。礼拝は、そのような神の熱情に触れる時であり、私たち自身が見出される時です。教会はその場を、その人を共に見出して、歩もうとする群れなのです。

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