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2020年5月3日(日)主日礼拝説教

復活節第4主日礼拝

説教「偉大なる蛇足」増田琴牧師
聖書:イザヤ書49章1~6節
    ヨハネによる福音書21章15~25節
讃美歌:46、18、451、主イエスはきずな、547

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こちらから主日礼拝の動画をご覧いただけます。
【動画配信】2020年5月3日復活節第4主日礼拝

説教でご紹介した青年たちの賛美動画はこちらです。

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ケアすること
 新型コロナウィルスの感染という事態の中で外出自粛が求められ、自宅で過ごす時間が長くなっています。日常であった生活が変わることによって、いつもは見えづらくなっていたことを改めて考えたり、見えてくることもあります。
いくつかの論評で見えてきたは「ケア」という言葉でした。今の事態によって物流や医療、看護、教育、介護などケア労働に従事している人々の重要性に気づかせたのではないかと言われます。
若松英輔さんという批評家、随筆家の方の文章の中で、私たちが見過ごしてきたもの、ひた隠しにしてきたのは「弱さ」ではないか。それも身体的な弱さというだけではなくて、内面、人間関係における弱さを受け入れざるを得ない場所に立っているのではないか、と。
平常時ならやり過ごせても、不安に押しつぶされそうな日には、胸を開いて語り合う相手がいない、ということも深刻な問題になる。そして、弱い立場に立ってみなければ、弱い人は見えてこない、というのです。
そして今は「助ける」だけでなく、「助けられる」ことを学ぶ契機でもあるのではないか、と。
 確かに、いつも忙しく仕事をしている間には自分が助ける側にいるという感覚をもっています。しかし、こうして制約の多い生活で、孤独を感じやすい中で、電話で話したり、気にかけあったりするゆるやかな関わりの中で支えられていることに気づきます。

「あなたは私を愛するか
復活のイエスと出会って、そして漁に出た弟子たち。何もとれない、徒労に終わる夜に、イエスが立っておられた。その夜明けをイエスは食卓で迎えられました。一緒に朝ごはんを食べた後、ペトロに対して主イエスが問われるのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。
ヨハネによる福音書13章36節以下には、ペトロは「あなたがたは互いに愛し合いなさい」といわれた後で、イエスに「どこへ行かれるのですか。あなたが死ぬのならば、わたしも自分のいのちを捨てて、その後に従います」と語ったとありました。しかしイエスは「わたしのために命を捨てると言うのか、はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われました。
夜でした。「わたしはあの人の弟子ではない」と。夜が明けないうちに、三度否んだのです。三度というのは、たまたま言い間違えたということではない。完全に否定したということでしょう。
同時にイエスは、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう(打ち消すだろう)」と語ると共に、「後でついて来ることになる」と言われました。それは、必ず実現することとして語られたのです。
今朝、イエスはペトロに尋ねます。「あなたはわたしを愛するか」と。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」。しかも、一度ではない。三度尋ねられます。ペトロは三度目になると、悲しくなりました。
ところで、この主イエスとペトロの問答はとても切羽詰まった、相手を赦し、活かす、一人を立てようとする愛に満ちたやりとりなのですが、ここを読むたびに、何かすれ違っているような気がしてなりませんでした。
主イエスとペトロのやり取り、主イエスは「この人たち以上に私を愛しているか」と尋ねる時、アガパオー(愛する)という言葉を用いています。それは「アガペー」という「神の無条件の愛」、「自分の命をなげうってまで人を救おうとするイエスのような愛」のことを表しています。それに対して、ペトロが答えているフィリアは、「人間同士の親しい関係」や、友情というのでしょうか。「好きだ」というような感情を指しています。
そこで、この場面を少し再現してみたいと思います。
イエス「わたしを愛しているか。」
ペトロ「はい私はイエスさまが大好きです。それは あなたもよくご存じでしょう。」
イエス「私を愛しているかと聞いているんだ。」
ペトロ「だから大好きだと言ってるじゃないですか。」
イエス「あくまで愛しているとは言わないんだな。あなたは私を大好きだとしか言えないんだな。」
ペトロ「そうです。私があなたを大好きだとしか言えない、あなたは知っておられる通りです。」
ペトロは「私はあなたを愛しているなどと言えるような者ではありません。だけどあなたを大好きなのは確かです」と正直に言わざるを得ませんでした。主イエスは、そのペトロに「そこから始めればいい」と言って、使命を与えられたのではないでしょうか。無償の愛とか、究極のとかそういう自分に信頼を置いていうようなことはできない。
でも、そこから始めればいい。確かなのは、ペトロの思いではなく、使命を与える主イエスの愛にあるからです。イエスはペトロの信仰深さを認めて、教会の指導者としての使命を与えたのではなく、まことの愛において失敗と挫折を繰り返し、そんな自分に情けなさと絶望を噛みしめるペトロにこそ、宣教の使命を託されたのだと思います。

養いなさい-ケアへの召命
ペトロが与えられた使命は「羊を養いなさい」ということです。漁をして大量の魚がとれたという高揚感をもっていたペトロ。手ごたえがある仕事。けれども、イエスが託されたのは「養う」ということでした。それは、言ってみれば「ケアする」ということです。相手の様子を見て、必要な言葉をかけ、祈り、手のわざによって支える。
教会では、「牧会」と言ってきました。それは心身と魂をに支える働きです。死に至るまで看取り、神のもとにある平安を祈り、寄り添う働きです。牧師のみならず、長老や役員、教会に集う一人一人が互いを思い、祈ることによって行われてきました。
それは教会の務めとなりました。「ホスピタリティ」、おもてなしと訳されることもありますが、その語源は「客人の保護者」という意味を持つラテン語「hospes=ホスピス」(または、hospics=保護する)と言われています。「ホスピス」とは昔、巡礼などに旅立った人が途中で病気や飢えで倒れた際に修道院で看護を行うことを指す言葉でした。「hospital=病院」も「hospes」から派生した言葉です。
「養いなさい」「飼いなさい」という言葉は、イエスとの間に完成された関係を創るというのではなく、人々の間に、現実に自分を開いていく、そういうあり方へ導かれているのだと思います。主の平和を信じて進む道のりの中で、私たちもまた、まことの愛において失敗と挫折を繰り返しています。
自分をなげうって人に仕え、命をなげうってまでも人を救うようなあのイエスの愛を知らされつつも、いざというときには自己愛に走り、苦難の人を目の当たりにしながらも通り過ぎてしまう、そんな情けなさを誰もが抱えています。また、一生懸命やってもいつもそのことが認められるというわけではない。そのことに失望してしまうこともある。けれども、復活のイエスは私たちにそれが決して無駄に終わることはない、と約束される。復活のイエスは、イエスを愛しているなどと言う資格のない私たちに、もう一度まことの愛に生きる希望を与え、また使命を与えられるのです。

行きたくないところへ
イエスはこう続けます。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
私はこの言葉が、今の私たちの状況の中でとても大切な意味をもっているのではないかと思うのです。私たちは自分の状況というのは、今までの積み重ねた努力や能力の結果あるものとして、自分の責任だという考えを強く持っています。
けれども、コロナの感染拡大を防ぐということにおいて、私たちは自分が必ずしも「行きたいところへ行っている」わけではない、ということを知るのです。家庭で子どもを見ながら仕事をしている人もいます。介護をするために通勤する人たちもいます。医療の現場では働く人たちが壊れそうな思いをもって務めを果たしています。
人の命を支えながら生きるということの中には、そうした自分の予定や努力というものを超えて、常に弱さを抱えるということを含んでいます。そういう中にあって、出てくるのは、他者に対する視線です。

偉大なる蛇足
この箇所は私には不可解でした。それはその最後のところです。ペトロが三度応えて、イエスに使命を与えられる、ここで終わっていれば感動的なラストというのでしょうか。しかしそうはならない。ペトロは自分では行きたくないところへ行くことになるとイエスに言われて、後ろを振り返るのです。そうすると、もう一人のイエスの愛しておられた弟子がいた。
彼はその弟子を見て、「では、この人はどうなのですか?」と聞く。人との比較、全員がそうなるのならわかる。けれども、そうではなくて自分だけが行きたくないところへ行くのか。私はなぜ、これがラストになるのか解せませんでした。
けれども、ある時渡辺善太先生という神学者、聖書を正典として読むということを推奨された先生の説教を読みました。渡辺先生が「偉大なる蛇足」と題して説教をしておられたのです。蛇足とは、余分なもの不必要なものということですね。善太先生もそう感じていたのでしょう。けれども実はここに私たちの姿がある。「あの人はどうなるのですか?」と。特に自分が行きたくない、望んでいないような状態に置かれている時にこそ気になるのです。それはいわば私たち自身の姿だと言える。
そうして、このいわば蛇足のようなところは、ケアを抱えている私たちの状況なのではないかと思います。今、こうした事情を抱えているから思うように動けないのだと。「弱い立場に立たなければ弱い人が見えてこない」。今の私たちは自分自身が思うに任せない、そういう中にあって、いのちを支えるということがもっている大切さ。一人一人が大切な人の為に思い、祈っているということの大切さに気づかされています。「あなたのお大切」を支えたいと思っていると伝えたい。
イエスがペトロに託された使命、「あなたの大切な人のケアをしなさい」。それが今私たちにも委ねられています。
私たちの教会の青年会が第4日曜日の夕方に賛美夕礼拝を行っています。その仲間たちが、イースターに新しいメンバーが加わったのに集まってお祝いができない中で、何か歓迎を伝えたいとみんなで歌いました。
集まって歌うのではなく、それぞれの場で電子ピアノを弾く人、ギター、ベース、打楽器のカホーン、そしてカップソング、歌をあわせて動画を作成してくれました。それをご紹介したいと思います。
会えない時間は互いを思いあう時。そんなケアと祈りをこめて。皆さんの心に届きますように。

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