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2020年4月26日(日)主日礼拝説教

復活節第3主日礼拝

説教「希望の根拠」増田琴牧師
聖書:イザヤ書51章4~6節
   ヨハネによる福音書21章1~14節
讃美歌:331、闇から光へ(アイオナ共同体賛美集)、496(54年版)、主イエスはきずな、385

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【動画配信】2020年4月26日復活節第3主日礼拝

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徒労に賭ける
牧師として歩み始めた初めの頃、『徒労に賭ける』という説教を読んだことがあります。もう30年ほど前のことなのですけれども。長野県町教会や青森教会で牧師をして、引退された鈴木和男牧師の説教でした。
「徒労に賭ける」。その言葉が「ずん」と響いたのは、私が山陰の鳥取県の教会で育ち、キリスト教の伝道というのは、やっていることがすぐに目に見えるような成果を生むようなものではない、と実感していたからかな、と思います。
鈴木牧師は後に、その「徒労に賭けるという説教は、当時映画館で封切られて評判となった黒沢明監督の映画『赤ひげ』からインスピレーションを得たのだと明かしておられます。
山本周五郎の『赤ひげ診療譚』という小説が原作で、明治まで実在した「小石川療養所」と呼ばれた江戸幕府による貧しい人々のための診療施設が舞台です。
その中で診療の帰り、やりきれない思いをしながら赤ひげと呼ばれていた新出去定が、長崎で医学を学び江戸へ戻ってきたばかりの若い医師の保本登に心情を吐露する場面があるのです。
「…人間のすることには、色々の面がある。ヒマに見えて効果のある仕事もあり、徒労のように見えながらそれを継続し積み重ねることによって効果の現れる仕事もある。おれの考えること、してきたことも徒労かもしれないが、おれは、自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている -」。
徒労とは、「無駄な骨折り」や「無益な苦労」という意味の言葉です。一生懸命やっても、実を結ばないというような時に、「徒労に終わる」という使われ方をします。でも、赤ひげは「徒労に賭ける」と言います。それはやってもやっても成果が現れないような、それでも、自分はそこに人生を賭けていこうという、ものすごく大きな決断をしているとか、かっこよく言うというのでもない、あきらめではない。
山本周五郎という作家(1903年生、1967年没)は、幼い時に教会学校に通っていた経験があり、聖書の世界に触れており、作品にはキリスト教、聖書の思想からの影響が色濃く反映しています。お酒を飲むと、「主よみもとに」や「また会う日まで」を歌っていたそうです。
そこには、人が生きていく姿、そして、社会の中で無駄、無益と思われるようなことをやっている中に、人を生かしていくわざがある、そういう眼差しを思い起こさせます。

何もとれない夜
ヨハネによる福音書は20章で一旦終わっているように読めます。事実そうであったようです。その後の21章は本来の福音書が書き終えられた後に、復活のイエスに出会ったことを再度記しています。
復活のイエスと出会った弟子たちは、その後すぐにイエスの復活を人々に伝える伝道にいそしんだわけではない。ドラマならば、喜びに満たされて出かけていく、と描くように思います。
でも、そうではなかったようです。
ペトロとトマス、そしてその他の弟子たちはティベリアス湖、つまりガリラヤ湖の湖畔にいます。自分たちがこれから何をしてよいのか皆目見当がつかない。落ち着かない。そういう心持です。それで、では漁にでも行こうか、となる。特に意味があるわけでもない。自分たちが一番よく知っているわざでした。日常の糧を得るための仕事です。
「その夜は何もとれなかった」と記されます。何も取れない夜。骨折る努力をしても、顧みられない憂鬱。もう疲れ果てています。
わたしたちもしばしば、そのような経験をします。自分がやっていることは一体なんだったんだろう、と落ち込む夜があります。結局、何をやってみてもうまくいかない、無駄なのか、と。ペトロたちもあきらめや寂しさを感じていたでしょう。
一晩中働いてなんの収穫もなかった弟子たちが岸に向かいます。そこにイエスが立っておられました。偶然立っておられたのではありません。弟子たちを待って、立っておられたのです。一所懸命に働いたのに収穫はなんにもない、そういうこともあるのです。

夜明け-イエスが立っていることに気づく
つまずいたり失敗したりして無一物で帰ってゆかなければならない岸辺があります。その岸辺に主イエスは立っていてくださいます。わたしたちを迎えるために。
人生には失うことによって初めて得ることのできる出発点というものがあるのです。失わなければ得られない出発点というものが。
夜明けにそこにおられた、そうペトロたちは気づいたのですが、それは何も取れなかった夜中そこにおられたのではないでしょうか。何もとれず、意気消沈している最中も。そこでも主イエスは見守っておられた。華々しく成果を収めているときではない。そこにも主イエスのまなざしがあるのです。
わたしたちは歩みの中で、そのことに気づかずに歩いています。
復活のイエスに出会うことは、わたしたちの打ちひしがれた夜の経験の時にも、主イエスが確かにおられた、主のまなざしがあった、ということに徐々に気づくこと、なのではないでしょうか。
夜明けの中で、主イエスはもう一度網を打ちなさい、と呼びかけられます。網を打ってみると、魚があまりに多くてもはや網を引き上げることすらできないほどでした。
復活の主に出会った弟子たち。それで何かができる、それで何かが変わる、究極のものをみた、究極のことを知った。そういうはちきれんばかりの充実感ややる気、思い、そういうものが主イエスのわざを推し進めるのではないのです。
初代の教会は、夜を経験しました。
復活の主を伝えようとした教会は大きな嵐の中で、翻弄されることになります。ユダヤ教の同胞から追い出されたのみならず、ローマによる激しい迫害によって、夜の時代を迎えていました。そこにあるのは徒労、です。どれほど努力をしても骨折るかいのない、それどころかずぶずぶと埋もれていくような歩みだったのかもしれません。

食卓への招き
私は復活節になると思いだす、教会学校の教師の方の文章があります。イースターの朝、教会学校の礼拝で迎えた子どもの中にはいじめを受けて学校へ行くことが難しくなっている子もいる。礼拝の席の向こう側の一人は仕事がみつからず、途方にくれています。
その間に座っている自分も、家族がばらばらになりかけていたのを、ムードメーカーであった自分がなんとかしなければと思っていた、そして何とかなると思っていた。疲れ果てて目を上げたとき、そこに教会の十字架があった。そういう自分たちだ。復活のイエスに出会うのは。
復活の主に出会ったら、すぐに問題が解決するわけではない。明日も一人一人の重荷をこうやって背負っていくだろう。でも、こうして共に集い、祈る。この問題だらけの私たちの間に主が立っておられる。どこに神の愛が注がれているのか、と思う。しかし、その私のそのままをそっくり引き受けて、夜の間も主はそこに立っておられる。そこに神の愛が届いていないと思ってしまうのは、実は私たち自身なのだ。
暖かい目で見通されている弟子たち。イエスは「子たちよ、食べるものは何かあるか」と尋ねます。これは責めているのではありません。一晩中網を下ろしていた彼らに対するねぎらいでしょう。
これはイエスとわたしたちの今の状況でもあります。わたしたちは個人的に、また社会の中で、世界の中でみ心にかなう生き方をしようとしながら、もがいているかもしれません。それでもイエスは変わることなく、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と手を広げて招いてくださるのです。

153匹の魚
ペトロたちが引き揚げた魚は、「153匹であった」。弟子たちは魚をわざわざ数えたのでしょうか?これは当時知られていた魚の種類が153種類であったというところからきているのではないかと言われます。それは世界に存在する様々な人種や民族の象徴なのです。
当時の世界は、ローマ帝国そのものです。すべての人種、民族がローマ皇帝の圧倒的な武力と権力の前にひれ伏す平和(ローマの平和)の中を生きていたのです。しかし、今はその支配のもとにあるような世界中のあらゆる人種、民族の人々が、救いの網の中に入れられるだろう。これはこの日の現実ではなく、来るべき日の先取りの場面なのです。
主イエスが岸辺で焼いている「魚」は、原文では「オプサリオン」というギリシア語が使われています。これは普通に食べる魚です。でも、シモン・ペトロが数えた「魚」、それは「イクスース」という言葉です。これも魚という意味なのですけれど、わざと変えてある。
このイクスースという言葉と魚のマークは、ローマ帝国による迫害の最中、信仰を生きるキリスト者のしるしでした。今でも、魚のマークは、ステッカーやシールなどで使われます。「イクスース」は、ここで救いの網に掛かった魚というだけでなく、その文字の一つ一つが、「イエス・キリスト・神の子・救い主」の頭文字と同じだからです。ペトロは、そういう魚を数えたのです。
私は、この「イクスース」が初代の教会の人たちの合図、暗号だったことを思います。暗い時代にカタコンベの中で礼拝をささげた人々は、このしるしを用いて、自分たちがキリスト者であることを互いに現したのです。
ペトロたちは、あの徒労に終るかのような夜の経験をして、夜明けにイエスが立っておられることに気づきました。自分たちのわざが無駄に終わる事はないという約束のような、多くの魚が獲れた経験をしました。そのゆえに、ペトロたちは徒労に賭ける思いが与えられたのではないでしょうか。もはや、それを徒労とは呼ばない。どのようなわざもイエスが見ておられるならば、徒労で終ることはない、という約束のしるしとして。
復活の証言の中で、朝の食卓を共に囲んだと記されているのは、ここだけでしょう。しかも、主イエスご自身が炭火をおこし、備えをしてくださっています。なんとも穏やかで、よいにおいの漂ってくる、おいしそうな食卓でしょう!イエスはパンをさき、魚も同じようにして、分かち合われました。
弟子たちは思い起こしたでしょう。主イエスはそうして、いつでもわたしたちに必要な糧を分かち合ってくださった。いのちの糧をくださった。喜びの食卓を一緒に囲んできた。神の国を待ち望んで、パンを分け合い、喜びも苦労も共に分け合ってきた。その主イエスが、今わたしたちを招いておられるならば、何も恐れることはない。
復活のイエスと出会うのは、特別な場所ではありません。むしろ日常生活を送っている場で出会うのです。そして、その場が神から与えられたところであり、働きであることに気づくとき、私たちの日常は神の働きを伝える日々となります。
ここから出かけていきましょう。神の愛と平和を携えて。

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