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2020年3月29日(日)主日礼拝説教

受難節第5主日礼拝

説教「この人を見よ」増田琴牧師
聖書:イザヤ書50章4~11節
ヨハネによる福音書19章1~16節
讃美歌:305,280,306,主イエスはきずな,385

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【動画配信】2020年3月29日主日礼拝

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 新しい朝を迎えました。冷たい雨の降る朝です。そして集まるということが困難な中です。しかし、私たちは今朝も礼拝を行うという、神から与えられた恵みによって歩き始めます。
受難節の歩みを続けています。イエス・キリストの十字架を思い、その十字架によって示されている神の愛と招きの中に入れられるひと時とさせていただきたいと願っています。
そして私は今朝、礼拝の場にはいられないけれども、その思いをもって祈りを合わせておられる方々にも聖書のメッセージをお伝えしたいと願っています。

「この人を見よ」 語った意外な人
 「この人を見よ」。ラテン語ではエッケ・ホモと言います。イエスを指して、「この人を見なさい」。「この人を見よ」という。それはキリスト教の中心であるということもできます。イエス・キリストを見よということです。
 「この人を見よ」エッケ・ホモという題名で多くの画家たちが作品を描いてきました。
 この言葉はヨハネによる福音書19章のイエスが十字架へ至る受難の歩みの中で語られています。そういわれると、そんな大事な言葉がどこにあるのだろうかと考えて19章を読み始めます。そうすると、何というかちょっと意外な、期待外れというのではないのですが、そんなところで語られていた言葉なのかという印象をもつことがあります。
そうです。この福音書の中心的な言葉を語っているのは、弟子でもなく、イエスと共に歩いた人たちではありません。そうではなくて、ここで自分の権威や立場と果たさなければならない務めを前にして、何とか事態の収拾を図ろうとしている人が語っているのです。
 それはピラトです。教会で使徒信条を告白する時に、「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と続きます。ローマ皇帝により、ユダヤ地方の総督として派遣されていたピラト。使徒信条の中でイエス・キリストと名前が出てくるのはマリアとこのピラトです。
 どんなひどいことをした人なのかと思う。しかし、彼は歴史に名前が残るようなひどいことをしたのでしょう?
 政治的に支配していたユダヤの地方で、彼らが「この男は王だと自称している」とピラトのもとに連れてきました。しかし、彼が尋問しても、そこに罪は見いだせませんでした。
そこで彼はイエスを鞭打たせたのです。兵士たちはイエスの頭に王冠ではなく、いばらで編んだ冠を載せました。王が着る高貴な色とされた紫の服、イエスが着せられたのはみすぼらしい布切れでした。彼らは「ユダヤ人の王ばんざい」と言って平手で打ち、嘲りました。
 そうして民衆の面前に連れてこられたのが、イエス・キリストだったのです。ピラトは指差し言います。「この人を見よ」。今の新共同訳聖書では「見よ、この男だ」と訳されています。
ピラトは指さしながら思ったでしょう。この人を見てみなさい。あなたがたが言うような面影がどこにある?ユダヤの宗教的な指導者たちが恐れたような神の子としての威厳などどこにもない。カリスマを感じるようなものもない。それどころか、無力で、みじめで、まるでぼろ雑巾のような、この姿を。「この人を見よ」と。
 ピラトには意図があったと言われています。それは、群衆にそのみじめな姿を見せることによって、こんな茶番を終わりにしようということです。ローマの責任者として政治的な判断をしなければならない。ユダヤは統治していたローマに死刑の決定や執行権を奪われていましたから、イエスを死刑にするにはローマの決定が必要だったのです。
 ピラトは過越し祭の時の恩赦によって、イエスを釈放しようと企てました。それなら、ユダヤの指導者や群衆の訴えと無実の者を刑に処するというローマの総督としての自分の立場の両方を何とか切り抜けることができる。
しかし、ピラトの思惑は全く思い通りにはならなりませんでした。むしろ、群衆はもう一人のバラバを釈放して、イエスを十字架につけよと叫び続けます。

「この人を見よ」 苦しむ人の姿
 受難節の歩みの中で、私たちは「この人を見よ」と歌います。そこには、人がいる。苦しんでいる人です。尊厳を奪われて、自分ではどうすることもできない。
 イエスはそういう一人として苦しみを担いました。人から捨てられ、嘲りを受ける。
 私は画家たちが描く「この人を見よ」という絵の中のイエスの表情を注意深く見ます。そこに描かれている人の顔を。
 ヴィクトール・エミール・フランクル(1905~1997)はオーストリアの精神科医でしたが、ユダヤ人であったために、第二次世界大戦中に家族と共に強制収容所に入れられ、1945年4月に解放されました。
 彼はその経験をもとにして『夜と霧』『それでも人生にイエスという』などの著作を発表しました。彼はその中で、人間のことを「苦悩する人間」(ホモ・パティエンス)と表現しました。人はたまたま苦しみを負うことがあるというのではなくて、人が生きるということは本質的に苦しみを担うということだというのです。
 それは、聖書の中で伝えられてきたことでもあります。イエスの前にも旧約聖書の預言者たちは、神と人の間にあって神の言葉を伝えながら受け入れられず、苦しみを引き受けなければならなかったのです。
 「この人を見よ」。それは苦しんでいる人を見過ごしにしてはいけないということでもあります。受難節は自分の内面に心を向けて、自分自身の問題を後悔と共に思い出すという時ではないのです。
むしろ、今苦しんでいる人が見えていますかという問いかけなのではないでしょうか。その苦しみというのは、人がそれぞれのところで、神の前にあるというところから、外れてきたことの集積なのです。聖書ではそれを「罪」と言っています。
 「罪」とはもともとの言葉では、「的外れ」という意味なのです。ピラトが自分の責任を放棄してユダヤの民衆に迎合したように。そして、イエスを十字架につけるために引き渡していくように。弟子のユダ、ペトロ、知らないうちにあおられて熱狂し、「十字架につけろ」と叫ぶ匿名の群衆。みな神の前にある自分の姿を見失ってしまった一人です。そしてそれは今の私たちの姿であるかもしれません。
 受難節で、「この人を見よ」というのは、自分のことしか見えなくなっているその視線をイエス・キリストの方へ向けることです。
 私たちが生きているこの場で、苦しんでいる人を見過ごしにしないでということでしょう。今の状況の中でも、外出できないことで苦しい思いをしている人たちもいるでしょう。子どもたちもいるでしょう。家にいることが苦しい人もいるかもしれない。家が安全な逃げ場になっているだろうか、と考えます。学校が休みになって給食がなくて、食べるに困る子どもたちもいるかもしれません。仕事を失う人もいるかもしれません。病いで不安な日々を送っている一人も。
 お互いが不安の中にある時、余裕を失うと、そのしわ寄せは弱いところに向かっていきます。その中で苦しんでいる人、子どもたちがいるでしょう。
「この人を見よ」。それは苦しみの中にあるイエスの姿であり、同時に私たちの社会の中で、支えが必要な姿が見えていますか、という問いかけでもあると思います。
私自身も人生の中で苦しみを負う一人であることを思い起こします。その苦しみの中にイエスの十字架が立っている。最も孤独を感じている時に、「この人を見よ」というその言葉が響くのです。

この人を見よ キリストを証しする
 私たちは「この人を見よ」という言葉が、ピラトによって語られたことに意外な思いをしながら、しかし、それが私たちの現実をも指し示す言葉であることに気づかされてきました。
 同時にこの言葉は、キリスト教の信仰を言い表した言葉です。
 『讃美歌21』の280番は「まぶねの中に」で知られています。
 この賛美歌を作詞された由木 康牧師は礼拝学の専門家であり、多くの讃美歌を作った方でもあります。鳥取県出身というところも、鳥取で育った私にはうれしい共通点です。由木先生は中学生の時に洗礼を受けてすぐに賛美歌を作るようになったそうですが、この賛美歌は1923年に作詞されました。
 その頃、イエス・キリストが神であるということはどういうことか、そして人と人との間に本当の愛というものがあるのかと悩んでいたそうです。その時に、たとえ人間の世界に本当の愛はなくても、イエスのうちにはそれがある。イエスの生活と苦難と十字架には、神の愛が表れているという確信が与えられてこの賛美歌が作られました。
 「この人を見よ」は、イエス・キリストの生と苦難、死と復活によってまさに神の愛を受け止めた人の証の言葉となったのです。
 ここには二つの物の見方があります。一つはピラトの見方です。それは、敗北者としてのイエスの姿です。
 もう一つの見方はイエス・キリストにおいて神を信じることを与えられた人の見方です。その人は、イエスの苦難の中に神が共におられる証しを見るのです。
 そして、その姿の中に本当の愛と救いが表されていることに気づく時、私たちは「この人を見よ」と証しするものとなります。
 「この人を見よ」と変わることのない神の愛によって生かされることの喜びを歌うものとなります。
 私たちは、それぞれ人生の途上において、イエスの招きを与えられています。それぞれが自分の十字架の重荷を背負いながら、愛をもって生きるように招かれています。
 イエス・キリストの招きに応え、痛み苦しむ人の隣人にさせて下さいと祈りつつ、受難節の歩みを続けたいと思います。

祈り
憐れみに富みたもう神さま
今、コロナウィルスのことで不安が広がっている中、一人一人と共にいて、主の平安を与えてください。
そのことのために働いている人にあなたの守りと支えを与えてください。
そして一日も早く、共に礼拝をささげることができますように。
アーメン

 

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