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2020年4月19日(日)創立90周年記念礼拝説教

復活節第2主日礼拝/創立90周年記念礼拝

説教「いしずえ」増田琴牧師
聖書:出エジプト記3章1~6節
   ヨハネによる福音書20章19~29節
讃美歌:331,197(3),394,92

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【動画配信】2020年4月19日創立90周年記念礼拝

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90周年を迎えて
経堂緑岡教会は今年、教会創立90周年を迎えました。日本でキリスト教伝道を担ってきた「日本メソジスト教会」は年会で東京の郊外での伝道を決定しました。その責任者として任命されたのが木原外七牧師です。新しい伝道の地を開通したばかりの小田急線沿線の経堂に定めて、1930年4月20日、イースターの礼拝で産声をあげました。今から90年前のことです。
イースターを迎え、今日は経堂緑岡教会の90周年の記念礼拝です。
礼拝堂はがらんとしています。共に集うことができない中で教会の記念日を迎えるということは、とても寂しいことです。でも、逆に「教会って何だろう」「私たちにとって教会とはどんなところなのだろう」ということをもう一度考えてみる機会なのかもしれない、と思います。
新型ウィルス感染拡大防止の為に、家にいて過ごしています。人と会えない孤立しやすい中で、だからこそ、今私たちはつながっていることの大切さ、会えないけれども互いを思っていることを伝えたいと思います。
イエスの死後、鍵をかけていた弟子たちの集まりの中に復活のイエスが立っておられたように、家にいる一人一人の心の扉の外にもキリストが立っておられる。そして、共に生きるようにと招かれます。
教会の扉は締まっているかもしれません。けれども、私たちが祈る時に、そこに教会の姿があります。
それはボランティア活動を行うようなアクティヴな参与ではないかもしれない。けれど、今私たちが家にいて祈ることは、神が与えられる平和に参与していることだと思うのです。
自分たちのために集えない。祝えない。けれども、それぞれの場で苦闘している人の為に祈る。そこに教会の形がある。今、私たちはそのことを心に刻みたいと思います。
そして、教会は何をいしずえにしているのか、土台にしているのか、今朝は聖書を通じてその恵みにご一緒にあずかりたいと思います。

トマスが抱えていたもの-挫折
ヨハネによる福音書はイエスが一人ひとりと出会い、対話をする姿を伝えてきました。それは、復活においても同じです。弟子たち、女性たち一人ひとりの人生の課題や負ってきたものが異なります。復活のキリストと出会うことには、その負ってきたものと無関係ではないのです。
最初の復活の証人となったマリアの抱えていたものが悲しみ、喪失感であるとすれば、イエスの弟子の一人であったトマスの負っていたのは挫折ということではなかったかと思います。
ヨハネによる福音書20章19節以降、イエスの弟子たち、女性たちが集まって祈っていた中に、復活のイエスが立たれました。トマスはその中にはいなかった。いわば「遅れてきた者」です。トマスは「ディディモ=双子」とも呼ばれていたようです。
周りの弟子たちが「わたしたちはよみがえられたイエスに会った」と聞いても、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語っていました。そんなことがあるのかと彼はやってきました。イエスが復活されて8日目、つまり1週間がたった後のことでした。
そのあり方は、現代を生きる私たちの姿に通じるものです。実証されなければ信じることはできない。
しかし、それよりもトマスが問いたかったことは、こういうことなのではないでしょうか。イエスが復活されたとあなたたちは言っている。しかし、私たちの果たしてきたこと、与えた傷、そうしたものはすべて失われたというのか、ということです。
トマスはヨハネによる福音書11章16節ではラザロの死に立ち会った際、仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と語っています。彼は自分の生を賭ける思いをもって、イエスに従っている。人生をかけて歩んできた。それが多少見当違いでも、です。
けれど、それが挫折して傷を与え、傷を受けている。彼が尋ねたいのは、「イエスに従い、人生をかけてきた、だからこそ傷を与え、傷を受けた。それはすでに忘れられているのか?」ということです。
実存的な問いです。自分の生を賭けてきたことへの問いです。それは私たちに深く迫ってくるのです。

触れてみなさい
キリストはトマスに対して、「あなたの指をここにあててごらんなさい、脇腹にいれてごらんなさい」と言われました。
トマスに対して、イエスが示されたのは何よりも、その傷ついた体でした。傷跡でした。イエスであることを示すのは、その傷なのです。栄光の姿ではなく、それは、傷だらけの姿でした。復活の体は無傷の、きれいな体ではなかったのです。釘跡、槍の跡を残した体でした。
トマスは告白します。「わが主よ、わが神よ」。
トマスにとってそれは、イエスが復活したということを合理的に理解したというのではない。むしろ、自分が生きてきたこと、与えてきた傷や負ってきた傷、トマス自身の拭うことのできない失敗や挫折、そういうものが、忘れられたのではない。それは確かにある。
けれども、「私が何をしてきたのか」というところから、「神がわたしに何をしてくださったのか」ということに触れたのです。神が先んじて赦し、招かれていたという圧倒的な経験です。
そこに復活のキリストとの出会いがあります。
私たち一人一人も、そのような経験をすることがあります。嬉しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと、そして、自分の中で消してしまいたい過去のある部分など、それらのどれ一つ、無駄になることなく主は用いてくださり、恵みに変え、今の私に導いてくださったことを思う。
復活のキリストに出会うのは、そのような人生の忘れることのできない傷跡で出会うのです。
それが覆われることなしに、そこから起き上がることなしに、新しい生のスタートはない。そしてそれは自分の力でもたらされるのではなく、神の愛に気づくときに与えられるものです。
その時に「わが主よ、わが神よ」という信仰の告白が生まれます。
復活のキリストとの出会いには、一人ひとり異なるプロセスと時があるのです。

石を積み重ねるように
今朝、私たちは経堂緑岡教会の90年の歩みに思いを馳せます。それはとりもなおさず、信仰生活を送った数多くの人々に思いを馳せることでもあります。その中にはすでにこの世の生涯を終えて神のもとで安らいでおられる方々もおられます。
また、この教会を通って、日本全国、また世界各地に散っていって、福音を宣教した方も多くおられます。
経堂緑岡教会の90年の中で、一人一人が教会を思い、祈り、議論し、学び、自分に与えられている賜物を献げてきたこと、それが教会のいしずえとなっています。
大聖堂が何百年という歳月、自分が生きている間に完成を見なくとも、一つ一つの石を積み上げていくように、信仰の先輩たち、今集う一人一人の歩み、祈りによって、教会の歴史は積み重ねられてきました。
世界中の、名も知られぬ多くの人々の信仰から、いつも夢や希望を持ち続けるという信仰の核心を教えられるような気がします。
教会は常に希望にあふれて順風満帆で宣教をしてきたというわけではないかもしれません。時には思いがけないことが起こり、危機もあり、失敗もあったかもしれません。その中で、どのように支えられて乗り越えてきたのか、その言葉を聞く時に大きな励ましを与えられます。

私がしてきたことの意味を問うことから神がしてくださったことに気づく
なぜ、私たちはこのような夢や希望を持ち続けられるのでしょうか。それは、私たちの信仰が復活への希望というものに基づいているからです。
「私たちがやってきたことは何だったのか」という、あのトマスの問い。けれども、傷ついたイエスのみ手は、神が私たちのために働き、身をささげ、愛し通してくださったことを証しています。復活の信仰は、私の生を越えて生きて働かれる神の愛へと私たちを導きます。
教会が行っている宣教とはキリストの福音を証しすること、そして、人々をキリストの愛と交わりにお招きすることです。
自分の言葉で、自分の生き方で、生きざまでキリストを証しすることです。
人の言葉ではなく自分の言葉で、み言葉を、イエス・キリストの愛を、私への慈しみを、自分にとっての喜びを、希望を人々に語ることです。
そして賛美は私たちに与えられた祈りであり、証しの言葉です。
あなたも、復活のキリストと出会っておられるでしょう。自分がやってきたことは何だったのだろうかと自分の手をじっと見るような時もあります。挫折の跡を見て、眠れぬ夜もあるでしょう。
しかし、そこに十字架で傷ついた御手をもって招かれるキリストとの出会いがあります。復活の主との出会いは「私が」という主語が「神が何をしてくださったのかへと変わっていく経験なのです。
そこに感謝がうまれます。そこに復活の証人としての生き方が始まります。新しいいのちがスタートします。あなたもその大切ないしずえの一つです。
経堂緑岡教会の歴史はそのような一人ひとりが復活のキリストと出会い、証人として用いられてきた歴史でもあります。
教会の歴史は今日から新たに積み重ねられていきます。どうぞご一緒に教会の歴史、神の国を宣べ伝えるわざに加わってください。祈りつつ、歩んでまいりましょう。

*この日の礼拝は90周年記念礼拝として松本敏之牧師をお迎えして、ささげられる予定でした。新型コロナ・ウィルス感染拡大防止により、集まることが困難になり、それぞれの場での礼拝をささげました。この日は経堂緑岡教会の90年の歩みを振り返る動画が作成され、配信されました。

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