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2020年4月12日(日)主日礼拝説教

イースター礼拝

説教「再び会うときに」増田琴牧師
聖書:イザヤ書60章17~20節
   ヨハネによる福音書20章1~18節
讃美歌:331、326、575、主イエスはきずな

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【動画配信】2020年4月12日イースター礼拝

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イースターおめでとうございます。
今朝は太陽が始めに登る東の国から順々に「イースターおめでとう」と伝えあいます。その中には、礼拝に集まることが難しい状況にある人々もいます。私たちもそうです。それはイースターの新しい感じ方を与えてくれています。今まで私たちには見えていました。子どもたちとイースターエッグをどんな風に色をつけようか、イースターの朝早く枡方城址公園で早天礼拝をささげて、卵探しをして、礼拝堂でイースター礼拝をささげます。目で見て確かめられる中で、復活を祝ってきました。
しかし今年、互いの姿が見えない中で、私たちは「イースターおめでとう」と伝えます。見えないけれども、私たちの間に確かなつながりがあり、見えないけれども互いを信頼しあっている。そしてそれは、私たちに新しい復活の祝い方を教えてくれているのです。見えないと思っている。けれども、確かにそこにあるもの。この困難な状況の中にあって、だからこそ大切に皆様に伝えたいと思います。
主は復活されました。そして、今も私たちと共におられます。私たちは一人ではありません。

泣くことができるということ
復活の出来事と最初に出会ったのは一人の女性でした。その人はイエスの十字架のもとにイエスの母マリアや何人かの女性たちと共にいました。それはマグダラのマリアです。女性たちはイエスがガリラヤにいた時から、伝道の最初から、エルサレムにおけるイエスの死に至るまで、伝道奉仕をし続けてきました。
その中心にマグダラのマリアがいました。彼女が最初に復活のイエスと出会うのは、死体の処置を施すために墓へ行ったという偶然性よりむしろ、どのようなことがあってもイエスに従い、弟子として粘り強く共に歩んできた日々の中にあったのではないでしょうか。イエスの宣教活動を支えてきたように、最後まで、死のところにも彼女の姿があったのです。
ヨハネによる福音書20章11節には「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。人はあきらめられないこと、受け入れがたい現実がある時に、涙するのです。十字架のもとでイエスの死へ至る姿を見続けたマリアは、イエスが死んだということを頭では知っていました。けれども、受け入れることができない。そこにマリアの涙があります。
谷川俊太郎さんの「生きる」という詩があります。
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
泣けるということは生きていることの証のようなものです。涙は神を思ういのちの水につながっています。
マリアはイエスの十字架の死を知っていました。そして、墓が空であること、そこに主はおられないということを知っていました。しかし、そのことを受け入れることができない。
ヨハネによる福音書はイエス・キリストが一人一人と出会ってきたことを丁寧に記してきました。そこに、人が神の愛と出会うという経験がある。復活の体験も一人一人異なる経験として表されています。それは生きてきた道のりの中で、その人自身が抱えてきたことが違うからです。
マリアが抱えていたのは悲しみです。イエスがここにはおられないという現実、死の前になすべきわざは何もないという苦しみ。
マリアは、最初に「なぜ、泣いているのか」と問われた時、イエスが立っておられることに気づきませんでした。彼女に見えていたのは、「遺体となった主を誰かが取り去った」ということでした。
悲しみの涙の中に、心が支配されています。彼女は死の世界へ、墓の方へ引き寄せられていくかのようでした。そのために、本当に見るべきものに目を注ぐことができなかったのでしょう。「それがイエスだとはわからなかった」のです。
私たちもしばしば、涙を流します。悲しみに心が支配されている時、本当に見るべきものに目を注ぐことができないということが起こってきます。

名前を呼ばれる
しかし、そこに近づいてこられたのは、他でもないイエスご自身でした。イエスは、彼女の涙や悲しみを誰よりも知っておられました。近寄って、「マリア」と呼びかけられたのでした。聖書において、神が名前を呼ぶことは、その人の生き方を新しくすることでした。そして、神の使命へ生きるようにと言う呼びかけでもありました。
旧約聖書でも「モーセよ、モーセよ」と名前を呼ばれて、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから解放するという使命を与えられました。
新約聖書ではパウロが名前を呼ばれました。「サウロサウロ、なぜ私を迫害するのか」。その時から、パウロは成功体験を求めていた生き方から、キリストの福音を伝える伝道者として召されて生きました。
 復活のイエスはマリアの名前を呼びます。「マリア」と名前を呼ばれて、彼女は振り返りました。立っていたのは、まぎれもない「ラボニ」(先生)でした。イエスの声がして、名前を呼ばれた時、マリアはイエスの方をしっかりと向き直りました。「わたしは主を見ました」。「主を見る」というのは、そこにイエスがおられるということを信じるということでもあります。
ある方がこんなエピソードを記しておられました。
東北地方を旅していた時にその日はあいにく雨がひどく降っていて、周囲の景色が何も見えなかった。バスのガイドさんが残念そうに、「晴れていれば、このあたりは美しい湖をご覧いただけるのですが、今日はおあいにくさまです」と謝っています。乗っている観光客は誰しもが残念がりながらも、「いいや、見えていない湖があるはずはない」と抗議する人はいない。
信じるということは、そこで雨にかき消されて到底ありそうにない湖の存在を、ガイドさんの言葉ゆえに「ある」と信じて疑わない。世の中というバスに乗り込んでいる私たちは、イエス・キリストがバスガイドになって、今は目に見えませんが、神は私たちを限りなく愛しておられます」と伝える。時にはあなたが経験していることは、神がおられるということなど到底信じることなどできないような苦しいことかもしれませんが、と言われることもあるかもしれない。私たちはそのガイドであるイエス・キリストの十字架に至るまで誠実であったあり方のゆえにその言葉を信じて勇気をいただく。
マリアは今までは目に見えるイエスに従い、歩んできました。この時から主体的に自分自身の言葉でイエス・キリストの福音を伝える者となりました。
振り向いた時に、復活のイエスがおられた。私たちの経験でもあるのではないでしょうか。私たちには、墓穴しか見えない、絶望しか見えない時が幾たびもあります。自分で向き直る事はできないかもしれない。立ち直れないかもしれない。そんな私の名前を呼ばれる方がおられる。闇の深さの中に、身を低くしてくださる方がおられる。その時、私たちは死の虜となるのではなく、いのちの方へと向き直ることへ招かれるのです。
それが新しい歩みの始まりです。

「わたしにすがりつくのはよしなさい」
復活のキリストとマグダラのマリアの出会いの場面。しばしば絵画のモチーフとなってきました。その中で語られる「わたしにすがりつくのはよしなさい」「我に触れるな」という言葉はラテン語ではノリ・メ・タンゲレというのです。
ジャン・リュック・ナンシーという現代の思想家がこのことについての書物を出しています。その扉にある絵画は17世紀のレンブラント、16世紀のデューラーやフォンタナの描いた絵。そのどれもが復活のイエスが麦わら帽子をかぶって手にスコップをもっています。とても感動的な場面なのですが、なんともおもしろい。その時代には絵画の時代考証がなかったからなのですね。
私たちがたじろぐのは、イエスが語った言葉です。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。この言葉に、私たちはたじろぐ思いを抱きます。「すがりついてはいけないのだろうか?」「共にいてほしいと願うのは、いけないことなのだろうか?」「イエスはそれを突き放されたのだろうか?」と。
マリアは、今までのあり方によって、イエスを再び失うことのないようにと恐れている。でも、私はここにいるではないか。あなたと共にいるではないか。今までのように、生活を共にするあり方でなくても、大丈夫、いつも一緒にいるよ、と呼びかけられたのではないでしょうか。マリアは、その約束があったからこそ、涙の中に受け止めることができたのです。
復活のイエスと出会うことは、今、この時も主が共におられるという経験に他なりません。
私たちは小さな死を経験しているのかもしれません。手放すということにおいて。自分で握りしめていたものを手放すという経験、小さな死の体験。いつか必ず迎える『大きな死のリハーサル』を行っているのかもしれません。私たちが生き生きと生きていこうとするときに、どんな自分も受け入れる勇気をもつこと。その勇気はそうした、自分が握りしめてきたものを放すという、小さな死によってもたらされるのかもしれません。

復活の証人として
マリアは兄弟たちのところへ行って告げました。「わたしは主を見ました!」わたしの絶望や不安、今までの経験を打ち破られて、これから未知の世界へ踏み出していく。呼びかけられた者として、今、この時代に必要な言葉を携えていく。マグダラのマリアは、復活の証人、使徒となりました。
復活されたイエスに出会った一人一人は、自分のいのちを用いて、生きようとします。確かに、私たちは死を迎えることを知りながら歩んでいます。しかし、それが私たちを支配している事柄ではありません。私たちは復活の主に結ばれています。
マグダラのマリアにとって、イエスが十字架にかかって死なれたことは、「悲しいこと」でした。悲しみはなくならない、何をもってしてもその場を埋めることはないかもしれません。けれども、復活されたイエスに呼びかけられた今、それはただ「悲しいこと」ではなくて、かけがえのない「大切なこと」になりました。マリアは、その「大切なこと」を周りの人にも伝える使命を抱いて生きる者へと変えられていきました。
それは新しい私との出会いでもありました。
復活という言葉には、「起き上がらされる」、「立て直す」という意味があります。文字通り、私たちは先が見えないような中にあるけれども、ここから神が与えて下さる未来に向かって、今立て直していく。一人一人の人生も、そして共同体も、新しいあり方を模索していくために与えられた試練の時であり、再び構築していく機会でもあると思います。
そして、今礼拝をささげている皆さんお一人お一人にも、復活のキリストと出会って、新しいいのちへ召された。新しい生き方へ歩み始めたという経験をおもちでしょう。あなたも復活の証人なのです。あなたも名前を呼ばれて、神に召されています。あなたも、その場で神の使命をもって生きている一人として生きていこう。
経堂緑岡教会90周年のイースター礼拝です。危機に見舞われながら、十字架のもとに協力してきた信仰の先輩たち、今は天に帰られた方々のことを思い起こしながら、今の私たちが新しい時代に向かって立て直していく時としたいと願っています。

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