2020年4月5日(日)主日礼拝説教
しゅろの主日礼拝
説教「見なさい、あなたの子です」増田琴牧師
聖書:イザヤ書42章1~4節
ヨハネによる福音書19章17~27節
讃美歌:305,304,主イエスはきずな,547
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【動画配信】2020年4月5日しゅろの主日礼拝
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今日はしゅろの主日の礼拝をささげています。イエス・キリストが十字架にかかられた週の歩みです。礼拝堂の前に棕櫚(しゅろ)の葉が飾られています。これは、イエス・キリストがろばの子に乗ってエルサレムへ迎えられた時に、人々が棕櫚の葉を道に敷き、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と呼びかけたところから来ています。「ホサナ」はヘブライ語で「救ってください」という意味です。
今日から始まる一日一日、私たちの生活の中でキリストの十字架を覚えて、この困難な時を共に過ごしてまいりましょう。
大切なことを教えてくれた人
ドイツのアンゲラ・メルケル首相がコロナ・ウィルス感染拡大を防止するためにメッセージを発信しました。「私たちは皆、好意と友情を示す別の方法を見つけなければなりません。スカイプや電話、イーメール、あるいはまた手紙を書くなど。郵便は配達されるのですから。私たちがお互いに一人にさせないことを社会として示すことになるでしょう」
昨年、メルケル首相のキリスト者としての側面に光をあてた講演集が新教出版社から出されました。『わたしの信仰 キリスト者として行動する』(アンゲラ・メルケル フォルカ・レージング編 松永美穂訳)。メルケル氏はドイツで牧師の娘として生まれ、生後すぐに父が旧東ドイツの教会に転任したことで、東ドイツで育ちました。もともとは物理学の研究者であったところから、ドイツ統一後は政治家となり、2005年以来ドイツ首相を務めている方です。
彼女はある講演の中で人生の模範ということについて語っています。彼女は父が牧師で、教会の附設施設によって運営される知的障がい者の施設の中で共に育ちました。彼女が模範として思い起こすのは、そこで園芸を担当していた、庭師として働いていた人なのです。障がい者の人たちも庭仕事をしていて、退屈したり、質問がある人は、誰でも彼のところへ行って話していました。誰もが彼といる時、心からの大きな信頼と穏やかさを感じ取っていました。
メルケル氏の父にも母にも忙しくて時間がない。たくさんの仕事を抱えていたはずの彼は、彼女のためにも時間を割いてくれたのです。どうやって花を移植するのか、シクラメンを植え替えるのに最適なのはいつか。知的障がい者の人たちと話すときの方法も彼から教わった、と。
いわゆる血縁ではない、けれども人生の大切なことを伝えてくれる人たち。教会にはそういう一人一人が集っています。子どもにとってはお菓子で手なずけてくれる人がいたり、ある時には礼拝中に騒ぎまわって怒られたり、そんな武勇伝がこの教会にもたくさんあります。でも、礼拝の時には皆、十字架の前に頭を垂れて祈る。そういう祈ってきた歴史そのものがこの教会を形作ってきました。出身、民族、母語が違う、趣味も考え方も、しかし、私たちは互いを親しい友と思っています。時には母であり、父であり、子どもであり同志です。そこには新しい神の家族の形、姿があります。血縁でつながった親子関係ではない。けれども支えあって祈っていく。神に思われている存在であることを受け入れて、共に歩んで行こうという姿です。
イエスは自ら十字架を背負う
棕櫚の主日の今朝、私たちが一緒にいるのはイエスの十字架の前です。ヨハネによる福音書19章17節には「イエスは、自ら十字架を背負い」と記されます。他の福音書ではイエスの十字架は背負わされたものとして記されます。刑に処せられるための十字架を背負っていく。ユダヤの宗教指導者たち、ローマの総督ピラト、そして群衆がイエスを十字架につけたのです。
十字架の上には罪状書きが架けられました。そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。それを掲げた人はそう思っているわけではありません。ユダヤ人の祭司長たちが「ユダヤ人の王と自称したとしてくださいと頼んだのですが、ローマの総督ピラトは断りました。それはいわばユダヤ人の王となろうとしたけれども失敗した人としての死だと扱われたのでした。反乱の失敗のように。
それがイエスの死にいたる道のりでした。しかし、ヨハネによる福音書はそこに、イエス自身が十字架を背負っていくというご自身の意志を表しています。
なぜ、何のために。
悲しみの母
「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた(ヨハネによる福音書19章25節)とあります。死を迎える時に多くの人は思うでしょう。どのような死に方であっても安らかに死にたい。実際、私が放送大学などで出会う方々にレポートを書いていただいても、皆さんそのように書かれるのです。そして、その「安らかな」ということの大きな要因の一つは周囲の人との関係でしょう。それは大切に思われて死にたいということだと思うのです。
イエスの死はその対極にあります。神からも人からも捨てられたような、愛する人々に大きな痛みと悲しみを与える死でした。十字架の姿を目の前にしている母。「悲しみの聖母」、ラテン語ではスターバト・マーテルと言われるカトリックのミサ曲があります。大変多くの作曲家がこの詞に曲をつくりました。作曲家でなくとも、愛する子の刑死に向き合う母の嘆きは胸を刺します。
十字架の上でイエスは母に言います。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、そして愛する弟子に「見なさい。あなたの母です」と。
この言葉は、愛する弟子に自分は十字架で死んでしまうけれども、残される母をよろしくと頼んだと受け取れます。死を前にして母や弟子にかけた言葉と受け取れる。けれども、この言葉にはもっと大きな意図があると思います。それはイエスが十字架を自ら負ってきた理由でもあります。血縁による母や子という関係から、神によって結ばれている家族がここから始まる。いえ、イエスの十字架を間にして、その十字架によって罪赦されている者としての神の家族がもう始まっているのだ。イエスが十字架で語ったのは、その共同体、人との関わりだったのではないでしょうか。
「神の家族」として
そしてここにいたって、ああ、そうだったのかと気づくのです。ヨハネによる福音書の冒頭に戻ってみると、1章には「この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」という言葉が記されていました。それは創世記1章が神によって生まれた世界を伝えているとすれば、ヨハネによる福音書は神によって生まれる人類、新しい神の民の誕生を伝えているのです。
血縁ではない。けれども、そこにはイエスの十字架によって結び合わされている、新しい神の家族の姿があります。イエスは言われるのです。「見なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と。それは信仰において与えられる人との関わりのあり方です。
そして、カナの婚礼の際に母に語った言葉をもう一度思い起こします。婚礼の席でぶどう酒が足りなくなった時に、母がイエスに何とかしてほしいと頼みます。しかし、イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2章4節)と答えました。なんともとっつきの悪い感じです。けれども、十字架上のイエスの言葉で、この言葉はイエスが母との関係を、親と子としてではなくて、信仰の関わり、つながりの中で言っていたのだ、と。カナの婚礼の時にはまだその「時」は来ていなかったのです。
しかし今やその時がきました。十字架を担うことによって、イエスは破れてしまっている神と人との間をむすび合わせます。人がもう一度、神の前に神から思われている者として生きていくことができるようにしてくださいました。
そのために、イエスは自ら十字架を負われたのだ、と。
そして、気づくのです。家族であっても、人と人の間にイエスの十字架が立っている。私たちは「家族」は様々な問題をはらむ場であることを知っています。信頼し支える関係であることを期待するのです。けれども、時にそれが支配や傷となることがあります。そういう中にあってこそ、イエス・キリストの十字架が必要なのだ。私と子ども、私とあなたの間に、そこにイエス・キリストが立っておられます。
「あなたの足を出しなさい」と言われるイエスの姿。そして、神に大切に思われていることから離れてしまった時に、自分を傷つけ、周囲の人を傷つける、その私の足を洗われるイエスの姿。自分で自分を赦すことはできません。けれども、私とあなたの間に十字架のイエスが立たれる時、そこに神の赦しがあります。私たちはその神の愛と赦しの中を生きていく者同士として、神の家族になるようにと招かれています。
イエスは言われました。「見なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」。私たちの目の前に見えているのは、十字架の姿、死の姿かもしれません。けれども、イエスはそれを大切な神の家族が共に歩んで行く場とされました。
十字架のもとにとどまる
そして復活の朝、私たちは今もイエスが共に歩んでおられること、「平和があるように、平安があるように」と傷のある手を広げて招いておられる姿に出会うのです。十字架によって新たにされた神と人との関わりの中で共に歩んで行く者とされていることを受け止めるのです。
私たちは今、かつてないような大きな不安の中を歩んでいます。先行きが見えない。しかし、私たちはイエスが十字架を自ら負われた姿を思い起こしましょう。語られた言葉を互いに伝えましょう。
「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」。
感染拡大地域であるということで東京にある教会のことを心配して祈ってくださっていると伝えられました。特に受難週からイースターという教会にとって最も大切な時期に集まることの困難を覚えている。
しかし、私はこの教会で牧会を共に担っている者としてお伝えしたいと思います。心がつぶれそうになりながら、皆様にそれぞれの場で共に祈りましょうと伝えた時、長老会でも礼拝がささげられるように協力し合っています。普段よりも連絡をとって声を聞いたり、メールやいろいろな形でつながりをもっています。欠けてもよい人は一人もいません。あなたも神の家族の大切な一人です。
私たちにとって礼拝は神から与えられた恵みであり、いのちです。そこで祈っている人、この困難な時に十字架のもとに共にとどまっている一人がいるかぎり、それが途絶えることはありません。
経堂緑岡教会の90年目の歩みが始まりました。私たちの神の民としての新たな歩みが始まります。あなたもその祈りを共に祈ってください。そして、神の民の一人として、十字架のもとに共に集う者としてご一緒に歩んでまいりましょう。